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古墳時代の創建と伝わる。
660年に滅亡した百済の王族の福智王ほか5柱を祀る。
江戸時代には高鍋藩の祈願所となり、新納院総鎮守の産土神、高鍋藩秋月家の守護神として崇敬を集めた。
年に一度、福智王の御神体が神門神社に祀られている父・禎嘉王と対面する神事、師走祭りが行われる。
拝殿
拝殿
本殿
本殿
本殿
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記紀旅で初めて参拝。創建は成務天皇の御代、武内宿禰による国県邑を定める際に社領を賜ったことから始まるとされる。主祭神は大己貴神であるが、合祀される神の中に百済の王族・福智王がある。
天平勝宝8年(756年)、国内の内乱のために父の禎嘉王と共に日本に逃れてきた福智王であったが、安芸の宮島から九州へ行き先を変えた後に嵐に遭い、父と弟の華智王が乗った船と離ればなれとなって漂流した。そしてようやくたどり着いたのが、日向の蚊口浦の浜であった。福智王はさらにどこに行くべきかを占うために玉を投げると、それは比木の地に落ちたので、その地へ行き定住することとしたのである。
時が経ち、やがて禎嘉王が住む神門の位置が敵の知るところとなり、手勢を率いて攻めてきた。父王の危急を知った福智王は兵をまとめて急ぎ神門へ向かい、劣勢の父を助け敵を退散させたのであった。だが、弟の華智王は伊佐賀の地で戦死し、禎嘉王も矢傷が元で神門で亡くなってしまった。そして福智王も比木の地に戻ると、故郷の百済に帰還することなく、その地で生涯を終えたのである。土地の者はこの異国の王族の徳を偲び、神として神社に祀ることとしたのである。
福智王が父の危難を知って神門へ赴いて対面したという故事にならい。毎年旧暦12月(1月下旬)に“師走祭り”と呼ばれる神幸祭がおこなわれる。福智王を祀る比木神社から禎嘉王を祀る神門神社までの約90kmを10日(現在は3日に短縮)をかけて往復する祭である。18名の者がフクロガミ(袋神)を奉じて神門神社に向けて「上りまし」をおこない、途中、華智王が戦死した伊佐賀神社で神門神社の代表と顔合わせ。そして禎嘉王の墓所とされる塚ノ原古墳に至って、掛け声を挙げて3度塚を回ると、神門神社に到着。翌日に神門神社で神事などを執りおこなうと、最終日に比木神社へ還幸する際には、顔に“へぐろ(鍋釜の墨)”を塗り、笊などを手にして「オサラバ」と言い合って別れを告げ「下りまし」がおこなわれる。この1000年以上も続く祭は、現在では国の選択無形文化財に指定されている。
また比木神社には「生き龍」の伝説があり、拝殿から本殿への渡り殿の天井に描かれた龍の絵は、絵師の前に現れた乙女が本性である龍の姿を見せて描かせたもので、夜な夜な絵から抜け出ると言われている。その当時の絵は明治10年(1877年)の火災で焼失して、現在のものは社殿再建時に復元されたものである。
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