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ひなぎく
ひなぎく
2024年05月06日(月)
493投稿

金子十郎家忠が30歳の時に社殿を造営し、武運長久を祈ったことが始まりとされています。

白髭神社には、神仏習合の思想に基づいて造られた「懸仏」が現存しています。懸仏とは鏡に仏像などを描いたり浮き彫りにしたものです。
家忠から14代目とされる子孫、金子家定が戦勝を祈って奉納されたと伝えられていて、文化財になっています。

境内社に敷島神社、白髭神社社殿を見下ろす位置に金比羅神社、権現神社があります。
金刀比羅神社の裏手の林道は金子神社へと続いています。

白鬚神社(埼玉県)
白鬚神社(埼玉県)
白鬚神社(埼玉県)
白鬚神社(埼玉県)

桓武天皇八代の子孫、武蔵守左近中将平行長が応和2年(962)村上天皇の命によって武士の棟梁として、また地方の役人として関東に下り武州金子郷に館を築き金子姓を名乗る。その後176年経った保延4年(1138)に金子十郎家忠が生まれ、仁安3年(1168)今から813年前家忠30才のとき社殿を造営。その後、404年を経た元亀3年(1572)家忠14代の孫、金子越中守家定により社殿が再建された。
(昭和56年10月)

白鬚神社(埼玉県)

社務所

白鬚神社(埼玉県)

黒いアゲハ蝶が周辺をずっと飛んでいました。

白鬚神社(埼玉県)
白鬚神社(埼玉県)

御神木。
階段の中腹あたりにありました

白鬚神社(埼玉県)

手水舎

白鬚神社(埼玉県)

拝殿

白鬚神社(埼玉県)

扁額

白鬚神社(埼玉県)

懸仏は文化財になっています。

白鬚神社(埼玉県)
白鬚神社(埼玉県)
白鬚神社(埼玉県)

力石

白鬚神社(埼玉県)

敷島神社
氏子祖先の御霊と国家公共につくした人の御霊を奉祀

白鬚神社(埼玉県)
白鬚神社(埼玉県)

この上に金刀比羅神社と権現神社が。けっこう急勾配で高所恐怖症にはツライ😂
階段に不安定な箇所があり、手すりに掴まってなんとか登りきったら蜘蛛の巣に引っ掛かり色々大変でした笑

白鬚神社(埼玉県)

金刀比羅神社
(大物主命、崇徳天皇)

白鬚神社(埼玉県)
白鬚神社(埼玉県)

角があります

白鬚神社(埼玉県)

宝珠がのっています

白鬚神社(埼玉県)

権現神社

白鬚神社(埼玉県)

昭和49年に西方約0.5キロにあたる権現山よりこの境内に遷されました。
このご神木「スダシイ」は白髭神社拝殿前のご神木と樹齢はほぼ同じです。従って同時代に権現社が祀られたことが証されます。

白鬚神社(埼玉県)

権現神社から見る白髭神社の社殿

白鬚神社(埼玉県)

拝殿付近からの眺め

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歴史

白髭神社の由緒記によると、桓武天皇八代の子孫武蔵守左近中将平行長が応和2年村上天皇の命によって、武士の棟梁としてまた地方の役人として関東に下り、武州金子郷に館を築き金子の姓を名乗った。その後保延4年金子十郎家忠が生まれ、19才のとき崇徳天皇の招きにより保元の乱に出陣、敵の大将鎮西八郎為朝の部下で鬼神といわれた、高間三郎四郎の兄弟を討ちとって勇名を天下に轟かせた。
平治の乱に源氏は大敗し家忠も金子に帰郷、やがて家忠30才の時高倉天皇の仁安3年、居城鬼門に社殿を造営して武運長久を祈り白髭神社とした。治承4年源頼朝は伊豆に兵をあげ金子十郎家忠は畠山重忠とともに三浦半島に衣笠城をかこみ三浦大介義明を打ち破り、この時家忠は身に21本の矢を受け奮斗。この戦に武蔵相模の勇士数ある中に家忠の武勇抜群であると名声をあげた。次いで寿永3年に源義経に従い京都宇治川の戦・一ノ谷から四国の屋島に渡り平家を討ち戦功によって武蔵伊豆下総などに地頭となって歴任した。

なお社宝の懸仏は、家忠14代の子孫金子越中守家定が滝山城の北条氏照と対陣したとき戦勝を祈って奉納したものと伝えられている。唐銅製円経9寸1分の器物で彫刻の文に元亀3年壬申9月金子越中守家定とあり、元亀年間に金子家は再建されたという伝えがある。

慶安2年8月24日先判の例により朱印高十石寄附されたことから、後代々の将軍家より同額の朱印を賜った。明治5年村社に列せられた。大正3年神饌幣帛供進指定村社に列せられた。昭和23年宗教法人として境内地譲与される。(入間神社誌より)

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名称白鬚神社
読み方しらひげじんじゃ

詳細情報

ご祭神《主》清寧天皇、武内宿禰、猿田彦命
創建時代仁安3年(1168)
創始者金子十郎家忠
文化財

寺竹白髭神社の懸仏(市指定有形文化財)

ご由緒

白髭神社の由緒記によると、桓武天皇八代の子孫武蔵守左近中将平行長が応和2年村上天皇の命によって、武士の棟梁としてまた地方の役人として関東に下り、武州金子郷に館を築き金子の姓を名乗った。その後保延4年金子十郎家忠が生まれ、19才のとき崇徳天皇の招きにより保元の乱に出陣、敵の大将鎮西八郎為朝の部下で鬼神といわれた、高間三郎四郎の兄弟を討ちとって勇名を天下に轟かせた。
平治の乱に源氏は大敗し家忠も金子に帰郷、やがて家忠30才の時高倉天皇の仁安3年、居城鬼門に社殿を造営して武運長久を祈り白髭神社とした。治承4年源頼朝は伊豆に兵をあげ金子十郎家忠は畠山重忠とともに三浦半島に衣笠城をかこみ三浦大介義明を打ち破り、この時家忠は身に21本の矢を受け奮斗。この戦に武蔵相模の勇士数ある中に家忠の武勇抜群であると名声をあげた。次いで寿永3年に源義経に従い京都宇治川の戦・一ノ谷から四国の屋島に渡り平家を討ち戦功によって武蔵伊豆下総などに地頭となって歴任した。

なお社宝の懸仏は、家忠14代の子孫金子越中守家定が滝山城の北条氏照と対陣したとき戦勝を祈って奉納したものと伝えられている。唐銅製円経9寸1分の器物で彫刻の文に元亀3年壬申9月金子越中守家定とあり、元亀年間に金子家は再建されたという伝えがある。

慶安2年8月24日先判の例により朱印高十石寄附されたことから、後代々の将軍家より同額の朱印を賜った。明治5年村社に列せられた。大正3年神饌幣帛供進指定村社に列せられた。昭和23年宗教法人として境内地譲与される。(入間神社誌より)

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