ありがたや たかのの山の いわかげに 大師はいまだ おわしますなる
第1番の御詠歌に唱えられているように、真に弘法大師を讃仰し、信心する者にとって、昔も今も大師は霊峯高野の山に肉身を留められ日夜各地の遺跡を巡錫され、常に我々の身近にあって見守り、お救いの御手を差しのべてくださっているとの思いから離れることはできない。
この思いから、大師の歩まれた各地の御足跡を巡礼して、より近く大師の御心に触れ、同行二人の境地に満たされる体験を深めようとする。
四国八十八ヵ所の遍路に多数の人が参加するのもむべなるかなと思う。
京阪神地区の寺院でも、信者さんたちと四国遍路を何十年も継続している方が多数あり、大師信者はこの聖跡巡礼に切なる思いを寄せている。人々の一生に一度は四国巡拝をと思うこの切なる願いが、日本全国到る所に四国霊場に擬して八十八ヵ所の霊場が開かれ、日夜お詣りの絶えないゆえんであろう。
江戸中期の安永年間(1772~81)に大阪真田山観智院(第16番観音寺) 在住の月海上人によって開創された「摂津国八十八ヵ所霊場」は、第二次世界大戦前は毎月21日には数万の善男善女が巡拝し、門前常に市をなすの盛大さであった。しかし不幸な先の大戦で焼失した札所寺院が続出し、加えて敗戦による人心の荒廃で巡拝者も激減し、霊場の存在すら忘れ去られようとしていた。
このことを深く憂えた14番札所六大院先住・小原孝澄大僧正は、その復興を発願し、宗祖弘法大師御入定1150年御遠忌記念を機に報恩謝徳のため日夜没頭した。そして23番札所の玉島宥雅権大僧正、39番札所の川口良信権大僧正、9番札所国分寺の西口公教大僧正、云の他各札所山主僧正様等の熱心なる協力を得て、ついに昭和52年(1977)1月21日、大阪市内41か寺の札所が結束して摂津之国八十八ヵ所大阪市霊場会を発足させた。孝澄和尚は早速、信者を引率して巡拝を開始した。
他方、毎月21日には札所輪番にて月例月波御影供法要を勤修してきた。その後、北摂方面の20か寺が結集して北摂地区黒場金を、兵庫地区27か寺が結集して兵庫地区霊場金を組織し、昭和55年1月21日、以上3地区霊場会をまとめて「摂津の国八十八ヵ所寺場」再興の第一歩を踏み出した。以降、巡拝の方々も日々その数を増やしつつあり、各山主の協力により、復興の悲願は見事に達せられた。
当八十八ヵ所木場は大阪の真ん中、中央区島之内南坊法案寺を第1番として御堂筋三津寺、あみだ池和光寺を経て、北は淀川より南は大和川の間、即ち西・福島・北・淀川・天王寺・中央・浪速・大正・阿倍野・港・住吉・平野の各区を巡って淀川を渡り、吹田・摂津・茨木・高槻・箕面・地田の各市北摂地区を経て、兵庫県に入る。そして尼崎・川西・伊丹・室塚の各市を巡って神戸市に入り、灘区から中央・兵庫・長田・須磨各区を回って88番須磨寺(正式名福祥寺)まで、摂津の国一円の多数の有名寺院を札所としている。
総本山四天王寺を初めとして国分寺・中山寺・清澄寺・須磨寺などの大本山、総持寺・勝尾寺・中山寺などの西国札所、太融寺・四天王寺などの新西国札所、近幾三十大不動尊等々、有名人の墓所や名所旧蹟等多数を包含している。
古誌によると、大阪大師巡りは寛政文化年間(1789~1818)ごろは時に盛んだった様子で、国分寺には安永8年(1779)10月に建立の「摂津八十八ヶ所」の石碑があり、また六大院門前には安政5年(1858)3月木食祐伝・祐範両上建立の「四国八十八ヶ所霊場の石碑」が今も建っていて、永い霊場の由緒を物語っている。
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摂津国八十八箇所
弘法大師
専用御朱印
713人
御朱印
金額
300円
受付時間
午前9時~午後4時
専用御朱印をいただける場所
6番札所、25番札所、40番札所、47番札所、54番札所、67番札所、69番札所、76番札所、88番札所
その他の印
御軸: 500円、笈摺: 200円
概要
引用:巡拝事典
基本情報
札所数 | 札所数:88 |
別名 | 摂州八十八箇所霊場 |
開創年 | 1772年 |
開創者 | 月海上人 |
事務局 | 摂津国八十八所霊場会 |
連絡先 | 中山寺 0797-87-0024 |
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