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津軽三十三観音霊場

観音
専用御朱印
巡礼中54人

御朱印

専用御朱印をいただける場所

1番札所、3番札所、10番札所、33番札所

その他の印

笈摺あり

概要

観世音の聖地を巡拝するために作られた”三十三霊場”は、日本では西国三十三ヵ所が創まりであり、津軽三十三ヵ所も、これにならって定められた。本州の最も北の端に位置する青森県は、古代には文化の外にあったといわれてきた土地であり、文献に初めて登場するのは斉明天皇の4~6年(658~660)で、それには「都加留」と書かれている。「陸奥国」とか「道の奥の国」と呼ばれるようになったのは8世紀の初めであり、青森県が都の遠方であることあり、青森県が都の遠方であることを示している。
この「道の奥」のはて、津軽に観音さまが紹介されたのは、天平年間(729~49) のことと伝説はいう。大化改新後、大和朝廷の組織下に入り陸奥国として設置されたが、その後も100年間にわたり「蝦夷」と呼ばれ、なお「王化に浴せず」の地であった。聖武天皇に命じられた行基は道の奥に入り、はるぼると津軽までやって来て布数に努め、"目屋"附近に濃在して千手観音像を駆り、蝦東に霊験を示して去って行ったと伝わるが、これが今は第2番札所として存在している。その後、相次いで天台宗や真言宗の僧侶が津軽に入り、観音堂、不動堂、大日如来堂などを建立した。
鉄倉時代をふくめて南北朝時代、室町時代、戦国時代と、津軽では豪族が興亡をくりかえす。鎌倉幕府から地頭代に命ぜられた曾我氏を筆頭に工藤氏、安東氏、藤原氏、金沢氏、葛西氏、南部氏一族、そして津軽氏などの豪族たちは、同族の繁栄を祈願するために、それぞれ「護寺」を建立し、その中には観音堂もあったろう。ここ奥州津軽郡も津軽氏の支配下に入り、急速に開発が進んだ。
原野だった土地が美田に変わり、村落が次々と誕生し、住民には産上神が必要となった。村びとの拠金や奉仕や、篤志家たちによって続々と観音堂等が建立され、当然のことながら観音講も生まれ、このような信仰心、堂舎、講組織が津軽三十三霊場の母体となった。
一方、巡礼などによる長期間の出国者が増えれば、領外へ貨幣や労働力が流出し、経済を圧迫しかねない。そこで出国禁止令や取り締まりが強化され、領内の霊場巡拝めぐりが奨励される結果になった。明治の廃仏毀釈では壊滅にひとしいような影響を受け、再び観音巡礼が復活するのは明治中期に入ってからである。観世音かもたらす衆生済度は、きめこまかく、活動的といわれ、そのうえ「現世利益」があるとされる。戦乱、貧困、病気によって苦しみ続けた人々にとって、生きている現在を救ってくれる仏さまは大きな魅力であった。
信者、特に民衆は、現在の救いに大きな期待をかけたのである。
1番久渡寺は、弘前市の中心部から南へ4.8キロ。津軽墨場の中では一番長い石段、227段を上りつめると、中央が聖観音堂と奥ノ院、左に本堂、右に鶴亀延命堂がある。辺りを包む老杉が600年の古い歴史を物語っている。昭和43年(1968)、弘前市がここに「こどもの森」を設けた。遊び場、キャンプ施設もあり、親子連れで賑わっている。
3番求聞寺は、華麗な岩木山神社のそばにあるが、神社とは少し趣きの異なった仙境である。石段の両側には歴史を語る老杉があり、根元には三十二観音の石像が並んで本堂まで案内してくれる。昭和40年には、本堂横に休憩所をかねた庫裡が建てられ、巡拝者に便宜をはかっている。
5 番巌鬼山観音堂(機鬼山神社)は、明治の初めまでは「十腰内観音堂」と呼ばれていた。そして今でも、十一面観音像は大山祇命とともに、厳奥山神社の神段に安置されている。ここの神域(境内)は130ヘクタールもあり、2本の大杉は県の天然記念物に指定されている。
8番日照田観音堂(高倉神社)は、鰹ヶ沢赤石集落から東南へ4キロ、日照田集落を経て、さらに100メートル進むと左手に大きな檜造りの鳥居が風雪にさらされて建っている。「御嶽」と呼ぶ丘があり、そこが十一面観音を祀る高倉神社である。山腹を利用しているので、境内の敷地は狭い。しかし、見事な老木群が霊場の神秘感をかもし出している。
9番見入山観音堂は、命がけの霊場と異名があるほど急角度の怪を、よじ登るようにして行くと観音堂にたどりつく。お堂は、土台に橋を組んで縁側に欄干をまわした舞台造。窟の中にはめ込むように建てられているので別名「窟観音」ともいわれている。場所が場所だけに、長い間無住が続き、10番札所の円覚寺が札所集印所となっている。10番円覚寺は、津軽三十三霊場の西のはてにあり、樹齢1100余年の“竜灯の杉”を初め、老杉、巨木がらっそうと林立する境内を見れば、古い名刹であることが分かる。「深浦の観音さま」と愛され親しまれ、週(入江)の奥、渚近くにあるために、信者や船乗りたちに「深浦澗口観音」と呼びならわされてきた。
19番義経寺は、義経伝説がある土地である。それによれば、源義経は北へ落ちのび、この地にたどりついて蝦夷ヶ島(北海道)へ渡ろうとしたが、風波が強く渡海が不可能であった。そこで、海岸にある巌上に端坐し、3日3晩観世音に悲願した。満願の朝、白髪豊ら老翁が夢枕に現れ、「竜馬三頭を与うべし」と告げた。感謝した彼は、巌上に持仏の観音像を安置し、供とともに竜馬にまたがり、蝦夷ヶ島へ渡ったという。
25番松倉観音堂は、足腰の弱い利者には厳しい霊場といえる。標高160メートルの梵珠山は、今は県民の森になっている。奈良時代に法相宗の僧、道昭上人が中国留学の後に諸国行脚の折、ここに教義を伝え、悩める人々の救済に努めた。眼下に津軽平野、近くに岩木山、遠くに日本海が眺望でき、読経をすませたあとの気持ちはまさに極楽浄土であり、観音の補陀落世界にいる気分になる。
33番普門院は、弘前市内では最も高い土地にある。禅林三十三ヵ寺(曹洞宗寺院が三十三ヵ寺並ぶ)のうちの一つ。明治維新・神仏仕分け以後、普門庵は講中組織に支えられ命脈を保ってきたが、大正7年(1918) に寺格を受け、普門誌となった。巡礼を終えた信者たちは、満願祈祷を受けて満足げに下山してゆく。

引用:巡拝事典

基本情報基本情報

札所数札所数:33
総距離400km
開創年1673年
事務局津軽三十三観音霊場推進会
連絡先久渡寺 0172-88-3939、普門院 0172-32-5105

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津軽三十三観音霊場の御朱印

津軽三十三観音霊場

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