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桃崎稲荷大明神ではいただけません
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桃崎稲荷大明神のお参りの記録(1回目)
山口県下関駅

投稿日:2020年04月05日(日)
参拝:2020年4月吉日
桃崎稲荷大明神


身投げ岩

12世紀後半の源平時代、
彦島は平清盛の息子、平知盛の所領地でした。
当時平家は木曽義仲によって京都を追われ
瀬戸内や九州各地を流浪する身。
寿永4年(1185)2月、屋島の合戦で敗れた平宗盛を
総大将とする平家一門は、平知盛が平定した
瀬戸内や、九州の平家方を頼りにして西側の
守りの要衝である彦島にやってきました

寿永4年3月、源平最後の決戦壇ノ浦の戦いが
起きるわけですが、平家方はここ彦島の福良
(現在の福浦港)を最期の出船の港とし、
次々に海峡に出ていきました。
安徳天皇に付き添った祖母二位の尼(時子)や
母建札門院(徳子)をはじめとする女性達も
多くが一門と共に船出しましたが、
平宗盛は女性には共に戦に出ることを強制せず、
希望する者は一門から離れて島に残ることを
許しましたので多くの女性が島に残り
戦いの行方を見守っていました。

壇ノ浦の合戦は、当初は潮の流れを借りた
平家方が優勢でしたが、四国や九州から
参戦していた郎党の相次ぐ離反や
当時の舟戦のルールを破って、平家方の船の
船頭を次々に射殺して船の自由を奪う作戦に
出た源義経の奇策により夕刻には平家の敗色が
濃くなっていました。

運命を悟った平家一門の男女が次々に壇ノ浦に
入水して源氏方の勝利で終わりました。
このとき、安徳天皇は祖母二位の尼に抱かれて
入水し、天皇の象徴である三種の神器のうちの
ひとつである宝剣も失われました。

戦が終わり、源義経を総大将とする源氏軍は
串崎(現在の長府外浦)赤間関(現在の唐戸付近)
彦島に次々に上陸しました。
源氏軍は京都を出て以来の食糧難や、
義経得意の不眠不休の強行軍のため,
軍のモラルは低下しており、兵士の多くは
半ば暴徒と化して、民家の倉や田畑を
荒らし回りました

平宗盛に暇乞いをした京都の女官や雑仕女
(ぞうしめ)たちは、島内の平家一門の
住居跡や漁師の家に匿われるなどして
潜んでいましたが、
戦に明け暮れてきた暴徒達の格好の標的となり、源氏の兵士達は陵辱の限りを尽くしました。
多くの女性は乱暴を受けた後に殺され、
誇り高き平家の女性達は命だけは助けられても
その多くは自ら命を絶ちました。

身投げ岩近辺は彦島の中では壇ノ浦から
もっとも遠く離れた地であり多くの女性達が
隠れていました。
彼女たちも ある者は源氏の手から逃れるため…
ある者は受けた辱めに耐え切れず…
次々にこの身投げ岩の断崖へ身を投じました
これが身投げ岩の伝記です

彦島で細々と漁師を営んでいた男達も
島の人々を非常に大切に扱った知盛の
お役に立てるなら・・・と、
平家の軍船の舵取りや水先案内人として
一門に同行しました
それまでの水上戦の常識であれば
彼らのような現地で雇われた水夫達は
平家が敗戦しても、命だけは助けられるのが
当然でしたが、義経の奇策によって、
彼らまでもが皆殺しにされ、
また、島に残った女性達も源氏の兵士達の
傍若無人な振る舞いにより多くが命を
落としました。

現在の島には源氏にまつわる史蹟は
何一つ語り継がれておらず
源平の合戦から800年がたった今でもこの地は
強烈な「平家贔屓(びいき)」の地として
平家の哀話が大切に語り継がれているそうです
桃崎稲荷大明神の建物その他
桃崎稲荷大明神の景色
対岸からの様子 写真をお借りしました
桃崎稲荷大明神の建物その他
たくさんの祠や像がお祀りしてあります
桃崎稲荷大明神の建物その他
桃崎稲荷大明神の建物その他
桃崎稲荷大明神の建物その他
桃崎稲荷大明神の建物その他
桃崎稲荷大明神の建物その他

すてき

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