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繁枝神社ではいただけません
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繁枝神社のお参りの記録(1回目)
投稿日:2020年02月14日(金)
参拝:2020年2月吉日
繁枝神社(しげしじんじゃ)
由緒
「飛鳥時代の天武天皇十三年(685年)、
日津喜麻呂豊国宿祢が奉祭する守護神を、
大股の里の住人下津五郎万正好の要請により、
下津令の里(通称踊り場)に社殿を創建し、
鎮斎したものという。
以来、豊国宿祢の子孫である林氏が
代々奉仕擦るところとなる。
その後台道地区の鎮守として尊崇されていたが、室町時代の応永年間(1394年~)、
台道村を二分割し、旧山陽道の北側は
小股八幡宮を奉祭するところとなった。
当社は下津令より現在地(繁枝)へ奉遷され、
跡地には「八幡宮旧蹟」と刻した石碑が
建立されている。
明治四十一年(1908年)当社へ、
厳島神社(岩渕)・河内原神社(河内)
相生社(下津令)・住吉社(高松)
恵比須社(市)・津山社(長沢)
以上六神社(当時の村社)を合祀した。
当社の拝殿には、毛利元昭公筆の
「繁枝八幡宮」の掲額がある。(旧村社)
由緒
「飛鳥時代の天武天皇十三年(685年)、
日津喜麻呂豊国宿祢が奉祭する守護神を、
大股の里の住人下津五郎万正好の要請により、
下津令の里(通称踊り場)に社殿を創建し、
鎮斎したものという。
以来、豊国宿祢の子孫である林氏が
代々奉仕擦るところとなる。
その後台道地区の鎮守として尊崇されていたが、室町時代の応永年間(1394年~)、
台道村を二分割し、旧山陽道の北側は
小股八幡宮を奉祭するところとなった。
当社は下津令より現在地(繁枝)へ奉遷され、
跡地には「八幡宮旧蹟」と刻した石碑が
建立されている。
明治四十一年(1908年)当社へ、
厳島神社(岩渕)・河内原神社(河内)
相生社(下津令)・住吉社(高松)
恵比須社(市)・津山社(長沢)
以上六神社(当時の村社)を合祀した。
当社の拝殿には、毛利元昭公筆の
「繁枝八幡宮」の掲額がある。(旧村社)
すてき
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