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2024年09月08日(日) 12時41分 byひなぎく
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和銅年中の創建と伝えているが正確にはわからない。往時「置賜宮」と称していた。長井時広が武運長久を祈願し社領として八十石を寄進し、米沢藩になって元禄4年社殿を再建したことが塩の沢金子家の記録にある。この金子家は代々この四所神社を祀ってきた家であったが、諏訪神社の鎮座本紀なるものを書いた同家29代と称する金子信濃守家良はこの四所神社の由緒を書いている。それによると湖水となった置賜盆地の水を流すために、手力雄命は金子家の先祖塩野長に聞いて大瀬のところの石を除去して水を流したので、この手力雄命すなわち信州戸隠神社の荒魂を塩野神社として祀った。これが置玉四社明神であるというのであるが、塩野長というのが、天照大神の孫にあたる塩土老の子であるとしているのも、系図を作るうえで普通にみられる先祖を誇示しようとする意図がうかがわれるし、その物語もあまりに神話的でまともに歴史的事項として取り上げることはできない。 しかしこのような事とは別に、部落の鎮守として塩の沢の人々が古くから崇敬し、精神生活の拠り所としてきたことは間違いない。 明治4年置賜四所神社と改め村社に列し、同42年宇賀神社を合併した。
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和銅年中の創建と伝えているが正確にはわからない。往時「置賜宮」と称していた。長井時広が武運長久を祈願し社領として八十石を寄進し、米沢藩になって元禄4年社殿を再建したことが塩の沢金子家の記録にある。部落の鎮守として塩の沢の人々が古くから崇敬し精神生活の拠り所としてきました。明治4年置賜四所神社と改め村社に列し、同42年宇賀神社を合併した。 社殿後ろのご神木の大杉は町内最大の太さである。
