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2023年04月27日(木) 14時51分 byさくら

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緯度
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33.7462056
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33.74812646241867
経度
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135.3363051
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135.352358054002
宗派
名前
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大神社
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大神社(芳養王子跡)
ふりがな
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おおじんじゃ
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おおじんじゃ (はやおうじあと)
郵便番号
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646-0063
住所
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田辺市芳養町1029-1
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田辺市芳養松原1丁目20−1
ご由緒
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創立年代は詳ではないが、院政期の記録中右記〈天仁2(1109)年〉や後鳥羽院熊野御幸記建仁元(1201)年などにみえる芳養王子社で、熊野参詣者に崇敬されたが、中世末以来、九十九王子信仰の衰微から荒廃したようで、社記に正和3(1314)年、若一王子権現宮として再興され、下芳養の産土神に祀られたことがみえる。
湯河氏も芳養庄を支配した時代に、田地5町余を寄進(『紀伊続風土記』)され、再興につとめている事が記されている。
しかし、宝永4(1707)年の津浪や延享3(1746)年の大火、嘉永7(1854)年の再三度の災害によって創立以来の記録・宝物類が消失したという。
明治元年には神仏分離の動きの中で、社名は若一王子宮・大神宮と改められたが、同5年、大神社と定められた。
同6年4月に村社に列せられる。
同10年10月に下芳養4ヶ村内の小社・叢社(田中の八柱社、芋の大神宮、西炭竃の氏神社、井原の綿津見社、大屋の大屋社、境の愛宕社)を合祀して境内社とした。
同35年に社格に伴う境内面積の規定により、境内地が拡大される。
同42年10月、幣帛料社に指定。
さらに、大正3年2月に会計法適用社に指定された。
昭和22年、宗教法人登録に伴って社名を寄言神社としたが、25年8月、現在の社名に復帰した。
俗称の「寄言の宮」は、大昔の或る神官の時代、或る夜の夢の中で束帯の神人より「我は今度〝泊りの鼻〟に寄れる神なり、早く我を迎えるべし」とお告げがあり、神官は翌朝お告げの場所に行くと、1つの笏(鏡)が漂うており、それをただちに迎えて御神体にしたという(『紀伊国名所図会』に記載)。
お告げによる寄り笏(鏡)の口碑は、漂着神の伝承の1つである。
(例祭)
大神社の祭礼は、明治より10月8日宵宮祭、9日本祭にて行われたが、現在は前述の通り10月第二日曜日に行われている。
本祭の渡御に供奉する美女万才、神饌の中の一枝二個付茄子が珍しい。
宵宮の前日、午後7時頃、獅子舞衆一同が宮入りをし、清祓の後、氏子各家庭に獅子舞を奉納して廻る。
宵宮祭の昼前、宮司が本当宿に出向き、当宿の家祓いを行う。
午後8時頃、2地区の獅子の渡りが行われる。
本祭日は、午前8時頃から2地区3頭の獅子舞の奉納がある。
3時頃から渡御に出発、氏子参列者と列をなし町内を神幸する。
4時、宮入りをし神前にて例大祭神事が斎行されるが、この神事に各当宿から奉納された一枝二個付茄子を献饌する。
一枝二個付茄子とは、長さ1尺3寸、幅5寸の板台に、竹串を馬蹄にまげて板台の両端にさし込み、揚柳の枝をさし渡し、これに茄子2個つきを板のままくくりつけたもので、いわれは定かでないが特殊な神饌物である。
また7地区から奉納される幣は、幣串の長さ2間(最近は短くなってきた)あり、渡御後の神前奉幣に際し、紙垂幣束の床上に垂れる程度により、漁運隆昌、豊年万作の吉凶を占うとの伝えがある。
神前例大祭の斎行をもって祭典の行事を終える。
また9月の晦日には、神様が出雲路に旅立たれる事を寿ぎ、お飛神事が斎行される。
電話番号
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0739-26-9929
メールアドレス
URL
見所
アクセス
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JR芳養駅から徒歩約4分
参拝時間
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24時間
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駐車場
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なし  
御朱印
御朱印帳
トイレ
参拝所要時間
参拝料
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なし
山号
院号
創立
創始者/開山・開基
本殿/本堂の建築様式
巡礼
行事
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10月8・9日(10月第2日曜日)
文化財
ご神体
御朱印の説明
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