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2026年01月13日(火) 23時55分 byInsidious

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ご由緒
編集前
「紀伊国牟婁郡塩崎荘中湊村恵美須社之内奉鎮座稲荷主神神鏡所以祈当役無難且当郡豊鐃也之時寛延三年……戸田孫左衛門藤原忠清営立」等により、弁財天を奉斉していた所へ倉稲魂神を勧請したようである。
例祭はもと2月15日であったが、現在は4月3日に近い日曜日で、開運の神として区民に尊崇されている。
祭典のあと、もちまきが行われてにぎわう。
又、子供みこしや英進社によるおまともおこなわれる。
『紀伊続風土記』によれば、現在稲荷神社の鎮座する古座町大字中湊は「三前郷・中湊村」と称されており「古座浦の乾にあり、村居相接して市店の形をなせり、村中に古の川口なり処あり故に湊といふ、後川口古座に転せるより、古座を口の湊とし、当所を内の湊とするよしにて、中湊の名起れるならむ」として村名の由来を記しており、「弁財天社 村の北山手にあり」として、中湊村の神社を記している。
中湊村の産土神は、同じ『紀伊続風土記』によれば「三前郷・池口村(伊計能久知)」の条に、「山王権現三社 一社七座宛 村中にあり、中湊、西向、神川三箇村の産土神なり、社は当村領にあれども、当村の産土神にあらず拝殿あり、小山氏山王を信仰して領地の内今の社地を見立て造営し、一族共に氏神とせし社にして中湊等三箇村は一族多かり、しかば今に至るまで三箇村の氏神とするなり」とあり、山王権現三社を産土神としている。
この山王権現三社は、近江国日吉神社より勧請された神社で、現在は日吉神社と称する。
このことよりして、中湊村の弁財天社は氏神ではなく、信仰の神社であった。
『和歌山の地名』には、「豊漁を祈って弁財天社を祀ったという」とあり、この神社に、倉稲魂神を勧請し、一村一社とて稲荷神社と称して、中湊の氏神社としたものと思われる。
村南部の右東谷には、代々中湊に住して医療に尽した玉川氏の墓地がある。
初代玉川玄竜は、泉州堺の出身で、安永元(1772)年当村に移住、医業のかたわら歴史を研究し、著書に『本朝資治通鑑細目』『熊野巡覧記』などがある。
『紀伊続風土記』が「熊野の地時々夷国漂流人ある故に訳官に命せられ月俸を与へらる」と記すように、通訳官として藩から月俸を受けた。
編集後
「紀伊国牟婁郡塩崎荘中湊村恵美須社之内奉鎮座稲荷主神神鏡所以祈当役無難且当郡豊鐃也之時寛延三年……戸田孫左衛門藤原忠清営立」等により、弁財天を奉斉していた所へ倉稲魂神を勧請したようである。
例祭はもと2月15日であったが、現在は4月3日に近い日曜日で、開運の神として区民に尊崇されている。
祭典のあと、もちまきが行われてにぎわう。
又、子供みこしや英進社によるおまともおこなわれる。
『紀伊続風土記』によれば、現在稲荷神社の鎮座する古座町大字中湊は「三前郷・中湊村」と称されており「古座浦の乾にあり、村居相接して市店の形をなせり、村中に古の川口なり処あり故に湊といふ、後川口古座に転せるより、古座を口の湊とし、当所を内の湊とするよしにて、中湊の名起れるならむ」として村名の由来を記しており、「弁財天社 村の北山手にあり」として、中湊村の神社を記している。
中湊村の産土神は、同じ『紀伊続風土記』によれば「三前郷・池口村(伊計能久知)」の条に、「山王権現三社 一社七座宛 村中にあり、中湊、西向、神川三箇村の産土神なり、社は当村領にあれども、当村の産土神にあらず拝殿あり、小山氏山王を信仰して領地の内今の社地を見立て造営し、一族共に氏神とせし社にして中湊等三箇村は一族多かり、しかば今に至るまで三箇村の氏神とするなり」とあり、山王権現三社を産土神としている。
この山王権現三社は、近江国日吉神社より勧請された神社で、現在は日吉神社と称する。
このことよりして、中湊村の弁財天社は氏神ではなく、信仰の神社であった。
『和歌山の地名』には、「豊漁を祈って弁財天社を祀ったという」とあり、この神社に、倉稲魂神を勧請し、一村一社とて稲荷神社と称して、中湊の氏神社としたものと思われる。