けたじんじゃ
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気多神社ではいただけません
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気多神社のお参りの記録(1回目)
投稿日:2023年01月06日(金)
参拝:2021年11月吉日
【越中國 式内社巡り】(過去の参拝記録)
気多神社(けた~)は、富山県高岡市伏木一宮にある神社。式内社で、越中國一之宮(※)。旧社格は県社。祭神は、大己貴命、奴奈加波比売命。本殿は国指定の重要文化財。
社伝によると、奈良時代の717年に祭神を勧請し創建とある。しかし通説では『式内社調査報告書』などに記載される通り、757年に越中国から能登国を分立する際に、能登国の気多大社から分霊を勧請したものと考えられている。
平安時代の927年に編纂された『延喜式神名帳』に記載のある「越中國 射水郡 気多神社 小(または名神大)」に比定されている(「出雲本」では小、「九条本」等では名神大)。のち射水神社との間で一宮争いが生じたが、1163年に成立した『白山之記』では、越中國一之宮であったが、射水神社が無力の間に当社が一宮になったと記載されている。
中世以降、別当寺である慶高寺とともに神仏習合の形で発展し、寿永年間(1182年~1185年)には木曾義仲の兵火、天文年間(1532年~1555年)の上杉謙信の兵火で伽藍や社殿を焼失したが、その度に再建されている。安土桃山時代に検地で社領が召し上げられ荒廃し堂塔大破するも、加賀藩主・前田家の庇護を受け、1645年には加賀藩3代藩主・前田利常により社殿が修復され、供田を寄付されている。明治に入り、近代社格制度のもと県社に列格した。
当社は、JR氷見線・越中国分駅の南西1kmのなだらか丘の上にある。当社の東方、丘の下には越中国分寺跡があり、当社の西方、社殿の背後には里山展望台がある。森の一部が境内のようになっていて、境内の神聖な空気感が非常に良い。境内のアップダウンは激しくはなく、社殿周りだけが一段高くなっている。立地としては一宮と称されることがあるのは納得だが、他の一宮のような豪壮な感じはしない。
今回は、越中國の式内社、越中國一之宮、富山県の旧県社であることから参拝することに。参拝時は平日の昼ごろで、我々以外にも家族連れや夫婦連れなど、割と多くの参拝者が訪れていた。
(※)越中国では、射水神社(射水郡)、気多神社(射水郡)、高瀬神社(礪波郡)、雄山神社(新川郡)の4社(いずれも式内社)が「越中國一之宮」を称している。なお、かつて国府や国分寺が存在した越中国の中心地は、現高岡市伏木(気多神社の所在地)とされている。
境内南東端入口にある<社号標>。
社号標に至るまでの公道脇にある<手水舎>。
入口の階段を登ると<鳥居>。この後、社殿前まで平坦な参道・境内が続く。
社殿は一段高いところにある。
階段を登って<拝殿>全景。横長なのが特徴。
階段を登った左側にある<狛犬>。微笑みを湛えたような独特な表情。(o^―^o)
階段を登った右側にある<狛犬>。材質は黄色っぽい独特な色合い。
拝殿に向かって右手にある<参集殿>。
<拝殿>正面。扁額は普通に「気多神社」。
<拝殿>内部。採光の良い幣殿の奥に本殿が見える。
拝殿後ろの<本殿>。戦国時代、永禄年間(1558~1570)の再建。三間社流造、向拝一間、杮葺。美しい佇まい。国指定の重要文化財。
社殿の左方向にある<御輿堂>。
御輿堂の近くにある<拝受所>。もう使われていないみたい。
社殿の左方向にある<大伴神社>全景。『万葉集』を編纂し、越中国司として当地で223首もの歌を詠んだとされる大伴家持を祀る。
<大伴神社>の社殿。
大伴神社から下ったところにある<神馬>。
神馬の近くにある<大伴家持卿顕彰碑>。
参道を挟んで神馬と反対側にある<越中総社跡伝承地>。
越中総社跡伝承地の近くにある<祭器庫>。
境内入口近くまで戻って、参道左側にある<社務所>。御朱印はこちら。
境内入口近くからの景色。富山湾が見える。(^▽^)/
すてき
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惣一郎1269投稿
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