いみずじんじゃ
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射水神社ではいただけません
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射水神社のお参りの記録(1回目)
投稿日:2022年12月21日(水)
参拝:2021年11月吉日
【越中國 式内社巡り】(過去の参拝記録)
射水神社(いみず~)は、富山県高岡市古城にある神社。旧式内社で、越中国一之宮(※)。旧国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。祭神は瓊瓊杵尊。
社伝によると、創建は太古で二上山を神奈備とし、その山麓に鎮座していた。国史の初見は『続日本紀』の780年条に神階奉授の記載があり、以降『日本後紀』、『続日本後紀』、『日本文徳天皇実録』、『日本三大実録』に神階昇叙の記載がある。いずれも高瀬神社(高瀬神)と同時・神階同階で、ともに越中国最高位の神社として朝野の崇敬を受けていた。また、8世紀後半に成立したとされる『万葉集 巻17』に、大伴家持により当社を詠んだ和歌が収録されている。
平安時代の927年に編纂された『延喜式神名帳』に記載のある「越中國 射水郡 射水神社 小(または名神大)」に比定されている(「出雲本」では名神大、「九条本」等では小)。のち気多神社との間で一宮争いが生じたが、1163年に成立した『白山之記』では、越中國一之宮であることが記載されている。戦国時代の天正年間に社殿を焼失したが、江戸時代に入って加賀藩の祈願所となり、1610年に加賀藩初代藩主・前田利長により御供田が寄進され、知識米徴収が許された。なお、江戸時代までは神仏習合の形で発展し、当社は「二上山大権現」と呼ばれた。明治時代に入り、神仏分離令により二上神を瓊瓊杵尊として祀り「射水神社」と改称、1871年には国幣中社に列格、1875年に高岡城址の本丸跡に遷座した。
当社は、JR氷見線・城端線・あいの風とやま鉄道・高岡駅の北東1kmの高岡城址の中央部にある。敷地がかなり広いため駐車場を見付けるのに一苦労、社殿を見付けるのにさらに一苦労した。社殿は一之宮らしく大きく立派。ただし社殿周りには境内社などはなく、大きな結婚式場、社務所、授与所があるのみなので、造りは至ってシンプル。
今回は、越中國の式内社、越中國一之宮、旧国幣中社、別表神社であることから参拝することに。参拝時は平日の朝早めの時間であったが、自分たち以外にも地元民と思われる人々がぱらぱらと参拝に訪れていた。
(※)越中国では、射水神社(射水郡)、気多神社(射水郡)、高瀬神社(礪波郡)、雄山神社(新川郡)の4社(いずれも式内社)が「越中國一之宮」を称している。なお、かつて国府や国分寺が存在した越中国の中心地は、現高岡市伏木(気多神社の所在地)とされている。
境内南西方の当社への参道。
境内南西端入口の<一の鳥居>と<社号標>。社号標は少し見えにくいが「国幣中社射水神社」と刻まれている。
参道の右側にある<射水神社結婚式場>。かなり大きい。
参道左側の大きな<手水舎>。
手水舎の後方にある<社務所>。
社務所の裏手にある、広大は<高岡古城公園>。春は桜、秋は紅葉が楽しめるらしい。
社務所近くから見た<社殿>。
社殿前にある<二の鳥居>。
<拝殿>全景。神明造の正統派。
<拝殿>内部。大きな文字で「射水神社」と書かれた扁額。
拝殿脇にある<授与所>。御朱印はこちら。
当社は本殿を直接見ることができない造りになっている。
当社は本殿を直接見ることができない造りになっている。
少し離れたところにある<相撲場>。
最後に、高岡城址の杜とその周りのお堀。紅葉は色付きはじめ。(^▽^)/
すてき
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惣一郎1269投稿
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