はやほしじんじゃ
速星神社のお参りの記録一覧
越中国婦負郡の式内社です。垂仁天皇さまの御代に反乱を起こした阿彦を討伐するために越国へ向かった皇子が、討伐後にその地に留まり、五穀豊穣を願って倉稲魂神さまを祀ったと言われています。その後に諏訪神さまも勧請されますが、なぜか地名の速星が社名になるという謎な神社です。
《鳥居と社号碑》
富山市住吉にも速星神社がありますが、あちらは18世紀に勧請されたと由緒書きにあるので、式内社としてはこちらが比定されているようです。
《手水舎》
水は貯まっていませんでした。
《境内》
鎮守の杜などはなく開けてスッキリしています。割と住宅地の一角ですしね。どちらかというとお寺の境内に近いかもしれません。
《拝殿》🙏
創建までの由緒で現れる阿彦は越国を討伐した大彦命さまの子孫で、朝廷からあまり重用されなかったことに腹を立て反乱を起こしたとされています。
ちなみに討伐に行った皇子に関しては『倭姫命世紀』にて伊勢国造をしていた大若子命さまとされています。史実ではないとされていますが、能登国を中心に大若子命さまが機織技術を伝えたとして祀る神社が点在しています。
《社務所》
普段は無人のようです。
《扁額》
👁チェックポイント‼️
この神社は皇子(大若子命)さまが倉稲魂神さまを、天武天皇さまの皇子が開拓に来て諏訪神さまを勧請しましたが、それらを差し置いて岩石の神様である五百箇磐石尊さまが主祭神となっています。
この地域は隕石でもよく落ちてたんでしょうか?
江戸時代には御門神社とという名前だったし、地元では岩石の神様として見ていたのか…?
《神宮式年遷宮のお白石持行事の記念樹》
氏子総代さんが行ったんでしょうか?
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