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宝泉寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2025年02月01日(土)
参拝:2025年2月吉日
宝泉寺は、東京都新宿区西早稲田にある天台宗の寺院で、山号を「禅英山」、院号を「了心院」と称する。本尊は薬師如来で、草創は弘仁元年(810年)と伝えられている。『和漢三才図会』や『吾妻鏡』によると、平安時代初期にはすでに存在していたとされ、承平年間(931~938年)には藤原秀郷(俵藤太)による創建説も伝えられる。いずれにせよ、千年以上の歴史を持つ古刹であることがわかる。
● 戦乱による荒廃と再興
南北朝時代の戦乱によって荒廃した宝泉寺だったが、文亀元年(1501年)、関東管領・上杉朝良が私財を投じて伽藍を復興。しかし、戦国時代に再び荒廃することとなる。その後、天文19年(1550年)、牛込時国によって再興され、再び寺院としての姿を取り戻した。
江戸時代の宝泉寺
● 江戸で最初に富くじを行った寺
江戸時代に入ると、宝泉寺は隆盛を極め、本堂(本尊・薬師如来)、毘沙門堂、常念仏堂、鐘楼を擁していた。特に毘沙門堂には、藤原秀郷の念持仏とされる毘沙門天が安置されており、勝負事にご利益があると評判になった。このことから、江戸で最初に「富くじ」(宝くじの元祖)が行われた寺としても知られる。『富興行一件記』には、宝泉寺が江戸で最も古くから富くじを行っていたことが記録されている。
● 宝泉寺の「おたから小判」
『淀橋奇聞』によると、文化13年(1816年)に寺男の伝蔵が境内の土地を掘り返していた際、山吹色に輝く小判が見つかったという。さらに天保14年(1843年)には、境内から800両もの小判が詰まった壺が発見されたとされる。この伝説により、宝泉寺の「富くじ」や「おたから小判」は金運・勝負運のご利益があると信じられ、お守りとして財布に入れると富が貯まるとされている。
● 江戸の人々の憩いの場
宝泉寺の境内には、三代将軍・徳川家光が名付けたと伝えられる「守宮地(いもり池)」があった。また、春には梅や桜が咲き誇り、江戸の人々の憩いの場となっていた。さらに、隣接する水稲荷神社の別当寺としての役割も果たし、高田富士と呼ばれる模造富士山が築かれ、多くの信者が訪れた。かつては広大な寺領を有し、現在の早稲田大学キャンパスの大部分が寺の敷地であったと伝えられている。
明治時代から現代へ
● 廃仏毀釈と戦火による苦難
明治時代に入り、廃仏毀釈の影響で寺領は縮小されてしまう。しかし、第15世・諶苗大僧正によって復興整備が行われ、再び寺院としての姿を取り戻した。しかし、第二次世界大戦中の空襲により、宝泉寺のほとんどが焼失してしまうという大きな試練に直面する。
● 戦後の復興と現在の宝泉寺
戦後、檀信徒の協力により昭和20年(1945年)に仮堂を建立、昭和27年(1952年)には本堂が再建され、さらに昭和41年(1966年)には現在の本堂が完成した。墓地の整備が進められ、庫裡や客殿が建築され、現在の姿となっている。戦災を唯一逃れたものとして、正徳元年(1711年)に鋳造された梵鐘があり、約300年の歴史を刻んだ音色が今も響いている。
● 早稲田との関わりと地域活動
かつて早稲田大学の敷地の大部分が宝泉寺の寺領だった歴史もあり、現在も地域との交流が盛んである。「早稲田てらこや」と銘打ち、地域住民や早稲田大学の学生とともに様々な企画や清掃活動を行い、学びと憩いの場を提供している。
YouTubeで毎朝7時、般若心経
● 戦乱による荒廃と再興
南北朝時代の戦乱によって荒廃した宝泉寺だったが、文亀元年(1501年)、関東管領・上杉朝良が私財を投じて伽藍を復興。しかし、戦国時代に再び荒廃することとなる。その後、天文19年(1550年)、牛込時国によって再興され、再び寺院としての姿を取り戻した。
江戸時代の宝泉寺
● 江戸で最初に富くじを行った寺
江戸時代に入ると、宝泉寺は隆盛を極め、本堂(本尊・薬師如来)、毘沙門堂、常念仏堂、鐘楼を擁していた。特に毘沙門堂には、藤原秀郷の念持仏とされる毘沙門天が安置されており、勝負事にご利益があると評判になった。このことから、江戸で最初に「富くじ」(宝くじの元祖)が行われた寺としても知られる。『富興行一件記』には、宝泉寺が江戸で最も古くから富くじを行っていたことが記録されている。
● 宝泉寺の「おたから小判」
『淀橋奇聞』によると、文化13年(1816年)に寺男の伝蔵が境内の土地を掘り返していた際、山吹色に輝く小判が見つかったという。さらに天保14年(1843年)には、境内から800両もの小判が詰まった壺が発見されたとされる。この伝説により、宝泉寺の「富くじ」や「おたから小判」は金運・勝負運のご利益があると信じられ、お守りとして財布に入れると富が貯まるとされている。
● 江戸の人々の憩いの場
宝泉寺の境内には、三代将軍・徳川家光が名付けたと伝えられる「守宮地(いもり池)」があった。また、春には梅や桜が咲き誇り、江戸の人々の憩いの場となっていた。さらに、隣接する水稲荷神社の別当寺としての役割も果たし、高田富士と呼ばれる模造富士山が築かれ、多くの信者が訪れた。かつては広大な寺領を有し、現在の早稲田大学キャンパスの大部分が寺の敷地であったと伝えられている。
明治時代から現代へ
● 廃仏毀釈と戦火による苦難
明治時代に入り、廃仏毀釈の影響で寺領は縮小されてしまう。しかし、第15世・諶苗大僧正によって復興整備が行われ、再び寺院としての姿を取り戻した。しかし、第二次世界大戦中の空襲により、宝泉寺のほとんどが焼失してしまうという大きな試練に直面する。
● 戦後の復興と現在の宝泉寺
戦後、檀信徒の協力により昭和20年(1945年)に仮堂を建立、昭和27年(1952年)には本堂が再建され、さらに昭和41年(1966年)には現在の本堂が完成した。墓地の整備が進められ、庫裡や客殿が建築され、現在の姿となっている。戦災を唯一逃れたものとして、正徳元年(1711年)に鋳造された梵鐘があり、約300年の歴史を刻んだ音色が今も響いている。
● 早稲田との関わりと地域活動
かつて早稲田大学の敷地の大部分が宝泉寺の寺領だった歴史もあり、現在も地域との交流が盛んである。「早稲田てらこや」と銘打ち、地域住民や早稲田大学の学生とともに様々な企画や清掃活動を行い、学びと憩いの場を提供している。
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