当山は凡そ五百年前、後奈良天皇の御宇江戸城際に開闢草創せる、真言宗寺院 なりしが、時の住持頻伽法印、身延山第十一世行学院日朝上人の教化を受け、寛正の 頃、日蓮宗に帰属せしものなり。
その後、西紀一四五七年長様の年、本院日、開山となり基礎を確立す。
慶長十九年に於て徳川氏開府の、江戸城域拡張に従い、 印内寺構への為現在地に移り今に至るまで伝統を保てるものなり。
当山に祀る稲荷尊は身延山開創の草分分体にして草分稲荷尊と称し、日朝上人と並んで地民の御厚か りしという。又、本堂に安置し奉る日朝上人の御尊像は頻伽法印報恩の為、彫刻せしものなりという。
当山八世玉峯院日静は、身延山第三十六世潮師法縁々祖六开院日潮上人と親交深く、 当山に残れる書簡により信仰の交流細やかに布教者魂意気投合せりという。とくに日静は法華経壹萬部・読誦の功徳を以って豆塚を築き、当時流行せる疱瘡をしずめたことにより、上人の徳を慕い諸人の参詣、後を絶たざりしという。十代将軍家治の時、当山篤信伊藤氏の娘、側室として仕え、その縁により、一族、大 奥の中蔦等の役務につくもの多く、とくに興善院殿篤諦泰大禅尼の法号を授与され た方は将軍家の信頼ことの外厚く、その縁により当山に赤門建立を許されたという。 故に四谷麹町界隈に赤門寺として有名を馳せ、多くの外護丹精を受けたりしといわれ る。その由縁は墓地及び顕彰供養塔に刻記し後世に伝へらるるなり。赤門に彫られし龍の彫刻は、当時、安永の名匠飛弾の甚五郎作と伝えられ、そのすばらしさは衆目をみはらせるものありしという。 当山檀徒、瀬名貞雄は江戸の国学者として著書も多く「室町三礼記」「十二月故實」「関東補任記」「殿上故実附記」等を著し江戸の地理に詳しく太田南畝との瀬田問答は 当山で行れしものという。 当山は其後、関東大震災には微動だにせざりしが、今次大戦により、赤門、土蔵造 りの本堂日朝堂、稲荷堂等、悉く烏有に帰し現在の本堂、客殿、庫裡は戦後建立せしものなり。
(稲荷山妙行寺由縁から引用) |