専称山西念寺は1593年(文禄2年)麹町清水谷に、服部半蔵正成により開山されました。服部半蔵は徳川家康の重臣で、槍の名人、忍びの達人として知られております。
家康には築山午前との間に武勇に勝れる長子信康がありましたが、それゆえに織田信長の目を引く所となり、信長は愛娘を嫁がせ、一族とし、二女がありました。
しかし、それでも織田家は信康への警戒心を解くことができず、噂にすぎぬ信康の乱心を理由にその義父でありながら信長は、信康の切腹を家康に要求しました(この時21歳)。
家康は断腸の思いで天下人信長の非常な命令に従い、最愛の子に切腹を言い渡しました。
その介錯を任ぜられたのが服部半蔵でした。が、いかに主君の命とはいえ、ついにその手を下すことができなかった半蔵は、このことから世の無常を感じ、また信康の冥福を祈るため仏門に入りました。
1590年(天正18年)家康は江戸に入り江戸城を築き、幕府を置くことになりました。半蔵も主君に随伴しましたが、信康の霊を弔うため剃髪し、名を西念と号し麹町清水谷に庵居を設け、遠州以来捧持していた信康の遺髪をそこに埋めて専称念仏の日々を送りました。
1593年(文禄2年)半蔵は家康より、信康の霊および徳川家忠魂の冥福を祈念するため、一宇建立の内命を受け、金500両を賜ったと記録されております。
しかし、寺院建立を果たさず、文禄4年11月14日、55歳で逝去しました。法名は「専称院殿易安誉西念大禅定門」。
その後、同所に一宇の建立がなりましたが、山号と寺号はこの法名からとり、「専称山安養院西念寺」となりました。
1634年(寛永11年)幕府の政策により、江戸城外堀の新設工事のため全ての寺院の移転が命じられ、現在地に移転しました。
1945年戦火で全焼失しましたが、昭和36年11月本堂を再建しました。
(西念寺縁起より) |