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2025年05月29日(木) 20時55分 byシンくん
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正保元年(1644)紀伊の太守徳川頼宣の生母お萬の方の発願により、里見日遙(安房の太守里見義康の次女)を開山として創立。従って江戸期、紀伊徳川家、伊予西条松平家の江戸表における菩提寺祈願所として、十万石の格式をもって遇せられ、壮大な堂宇と、庭園は江戸名所の一つに数えられ、新日暮里(しんひぐらしのさと)とも呼ばれた。江戸期において隆盛を誇ったが明治維新の変革によって衰微し、明治18年には火災によって全山焼失し、復興したが昭和20年戦災で再び全山焼失した。さらに39年の東京オリンピックの道路工事などによって寺観は一変したが、44年には本堂、書院を再建、59年には書院、客殿を増改築し、昔日には遠く及ばずながら復興し、現在に至っている。青山七福神の一ヶ寺であり、布袋尊が祀られている。
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1644年(正保元年)紀伊の太守・徳川頼宣の生母お萬の方(養珠院)の発願により、 里見日遙(安房の太守里見義康の次女)を開山として創立。 従って江戸期、紀伊徳川家・伊予西条松平家の江戸表における菩提寺祈願所として、 十万石の格式をもって遇せられ、壮大な堂宇と庭園は江戸名所の一つに数えられ、 新日暮里(しんひぐらしのさと)とも呼ばれた。 江戸期において隆盛を誇ったが明治維新の変革によって衰微し、 1885年(明治18年)には火災によって全山焼失し復興したが 1945年(昭和20年)戦災で再び全山焼失した。 さらに1964年(昭和39年)の東京オリンピックの道路工事などによって 寺観は一変したが、1969年(昭和44年)には本堂・書院を再建、 1984年(昭和59年)には書院・客殿を増改築し、昔日には遠く及ばずながら復興し 現在に至っている。 また、『青山七福神』の一ヶ寺であり《布袋尊》が祀られている。
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抄録 300円
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あり
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法雲山
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1644年(正保元年)
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養珠院(お萬の方・発願)/里見日遙(日遙上人・開山)
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渋谷区指定有形文化財 ・銅板日遙墓誌
