曹洞宗
海禅寺のお参りの記録一覧
奥多摩八十八箇所第二十七番札所、長泉院住職。のお父様が、海禅寺の住職もやられたそうで、 この二回目、 二俣尾駅前なんで下車したため、行ってみなくてはという想いがあるので、行くんなら
2024-02-12しかない。
隣りの海禅寺の三世和尚隠居寺と住職さん話してくれたので、海禅寺にも行ってみた。
躑躅の時の方がいい。 つつじいっぱい。梅少し。
御住職さんは年配だった。 普通の御朱印帳持ってきて無くて 仕方なく、奥多摩八十八御朱印帳の長泉院さんのところに書いて戴いた。
海禅寺は御朱印500円だった。
長泉院は二百円、その代わり判押印のみ。
長泉院さんのお話によると、青梅市の七福神さんの
宮ノ平のお寺さん(明白院)と兼務寺になったらしい。
曹洞宗のお寺さんは、形など厳しいらしいが
1週間修行でお坊さん資格とれるらしいので
我こそはという方は是非曹洞宗お坊さんになって
文化財管理して欲しい。
山城の入口にお寺さんは位置されて居る。
山城は、長泉院さんの道まっすぐ行った場所。
今は無い。
本堂裏に三田一族の供養のお墓。年代は江戸時代徳川けらいになった御子息がたてたのでしょうか?
三田一族お墓、其の一
三田一族、お墓其のニ
三田一族、お墓其の三
三田一族、お墓其の四
お墓と反対側の方の躑躅の丘の祠。
躑躅の丘。
躑躅の丘から本堂眺める。
躑躅の丘の梅。
躑躅の丘から吉野方面眺める。
長泉院さんの御朱印の横に入れて戴いた。
(奥多摩八十八箇所専用御朱印帳しか持ってきて無くて)
本堂にあった絵葉書はお賽銭入れると一枚いただける。
お寺さん塀はまるで武家屋敷!?
青梅市とボツバルト友好都市。
山門。
山門の裏。
境内梅
境内雪遺る。
青梅市を代表する曹洞宗寺院です。
寛正年間(1460~1465)益芝永謙が当地に長勝庵と号する草庵を結んだのがもととされています。師に当たる上州子持、雙林寺二世住職、一州正伊を開山住職とし自らは二世住職を称しました。明応元年(1492)益芝永謙の弟子が長勝山福禅寺と称する寺院として伽藍を整備したようです。戦国時代には、現在の青梅から近隣一帯を支配した豪族、三田氏の菩提寺となり栄えましたが、三田氏が、小田原北条氏の一族、八王子城主北条氏照によって滅ぼされると、三田氏の最後の砦となった城が寺の裏手、辛垣山にあったことから、当寺も灰燼に帰してしまいました。
天正年間に七世住職となった天江東学岳は、禅師の称号を得た高僧で、正親町天皇により当寺も勅願所と定められました。禅師は武州、甲州に50ケ寺を超える寺院を開創、復興されました。
徳川家から朱印状を賜った折に寺号が海禅寺と誤って書き記されたことから、現在の寺号に改めたそうです。
最盛期には青梅、奥多摩はもちろん武蔵全域、さらには京の都にまで末寺があり、その数は42ケ寺といわれるほどの寺勢を誇りました。
総門は山門と共に慶長十七年(1612)に建立されました。参道が車の通る市道だったようで、平成七年に修理を兼ねて今の場所に移されました。そのため門をくぐると石垣になってしまいます。総門と山門の間には、JR青梅線の線路も通っています。
山門は楼門形式の大きな山門です。青梅を代表する禅宗寺院の一つに数えられる寺にふさわしい規模の門です。
本堂は、昭和五十九年の火災で全焼し、昭和六十二年から平成四年にかけて、庫裡と共に再建されました。
かつては毎日朝夕、時の鐘をついていましたが、現在は除夜の鐘つきのみのようです。参拝の鐘つきも遠慮してほしい旨の立て札がありました。
地元の豪族、三田氏の墓石です。平将門の末裔を称し、全盛期には現在の青梅、奥多摩のあたりから、埼玉の高麗郡、入間郡までを支配していました。関東管領上杉氏の信頼が厚かったのですが、その衰えと共に、小田原北条氏に滅ぼされることとなってしまいました。青梅近辺には開基となっている寺院も多くあります。
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