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はちまんだいじんじゃ

八幡大神社の御由緒・歴史
東京都 三鷹駅

ご祭神《主》応神天皇
ご由緒

後西天皇明暦三年正月十八日、江戸本郷の本妙寺から出火した火事は折からの強風で大火となり、江戸城の天守閣をはじめ外堀内堀のほとんどを焼き尽くし、死者十万人ともいわれる大災害をもたらした。「明暦の大火」俗に「振袖火事」と言い伝えられている。江戸幕府は被災地町内外の整備を計り、火除地となる地域の住民に住宅の再建を許さず、罹災者に対する対策として新田開拓農民となることを奨励代替地を供与した。
 今から三百五十五年前、時に後西天皇万治元年、神田連雀町の一部住民二十五人衆とその家族は「茅場千町野」といわれていた現在のこの三鷹の土地を与えられ新田開拓農民となって移住してきたのである。これが今日の下連雀の始まりである。「下連雀」の地名の由来は故郷「神田連雀町」をとって名付けられ、当初「連雀新田」と称したが、寛文四年「連雀村」に改められ、更に武蔵野に新田が数多く成立するに及んだ享保年間「下連雀村」となった。
 霊元天皇寛文四年、連雀村の名主松井治兵衛は村の年寄、組頭等と村つくりの精神的また地縁的中心と仰ぐ「氏神社」の御創建について相議り連署を以て幕府に請願したところ、時の老中松平伊豆守は、代官野村彦太夫に検地を命じて現在のこの社地(約壱万坪)を除地と定め鎮守八幡大神社の創建を許可した。
 こうして下連雀村の二十五人衆は氏神社を奉斎し、心の拠りどころとして村つくりに励んだのである。
 棟札によると中御門天皇享保十年八月社殿の改築が行われ、次いで仁孝天皇弘化元年八月再建がなされた。現在の社殿は昭和天皇昭和三十五年八月に造営されたものである。
 明治四年の太政官布告によって「村社」に列せられたが戦後昭和二十七年「宗教法人」となり、下連雀の守護神として地域住民の厚い信仰心に依って発展し、年中の祭祀が行われ今日に伝えられている由緒ある神社である。

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