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むさしのはちまんぐう

武蔵野八幡宮のお参りの記録(13回目)
東京都吉祥寺駅

投稿日:2025年10月04日(土) 12時43分38秒
参拝:2025年10月吉日
土曜日の午後、境内へと向かう道すがら、空は今にも泣き出しそうなほど重苦しく、湿った風が頬を撫でていました。結局は雨がぱらつき始め、傘を差さずには歩けない状況になりました。曇天と小雨がつくり出すしっとりとした雰囲気は、神社という場所にはよく似合い、普段なら静けさに包まれているはずの境内も、どこか荘厳な空気をまとっていました。

ところが、その場には予想外の華やぎもありました。何組かの家族連れが、子どもに晴れ着をまとわせて参拝していたのです。七五三なのか、あるいは別の祝い事か、いずれにしても非日常の装いが曇天の中に鮮やかな彩りを添えていました。艶やかな衣の朱や紫は、灰色の空に浮き立ち、境内を小さな舞台のように変えていました。

しかし、その光景の中で目を奪われたのは、華やかな衣装そのものではなく、拝殿前での一幕でした。子どもが帽子をかぶったまま手を合わせているにもかかわらず、保護者らしき大人はそれを止める気配も見せません。むしろ「そんなこと気にする必要はない」と言わんばかりの態度でした。神前に立つ場での礼儀や作法など二の次で、写真を撮ることやその場の体裁を整えることにのみ関心があるように見えました。

もちろん、作法を知らないこと自体は罪ではありません。けれども、学ぼうとする姿勢すらなく、子どもに最低限の礼を示すことすら怠る態度には、どこか虚しさを覚えます。まるで神社を「映える背景」として消費するだけの舞台装置としか捉えていないかのようです。形ばかりの晴れ着に身を包ませても、その奥にあるべき敬意や心構えが欠けていれば、見た目の華やぎはむしろ滑稽にさえ映ります。

近年よく耳にする「親ガチャ」という言葉が、ふと脳裏をかすめました。子どもにとって親を選ぶことはできず、親の価値観や態度がそのまま教育の土台となってしまうのです。神前で脱帽の一つも教えられない大人のもとで育つ子どもは、果たして何を学んでいくのでしょうか。礼を知らぬまま「常識」を置き去りにした大人の背を追うことになるのかと思うと、どこか気の毒さすら感じます。

週末の境内に集う人々の姿は、多様な家族の物語を映し出していました。華やかに装う者、礼を重んじる者、そして礼を欠いても気にしない者。そこに優劣をつける必要はないのかもしれませんが、それでも拝殿前で帽子を脱がぬ子どもを見過ごす大人の姿には、「親ガチャ」とはよく言ったものだと、皮肉めいた実感を抱かずにはいられませんでした。
武蔵野八幡宮(東京都)

すてき

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