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橘社ではいただけません
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たちばなしゃ

橘社のお参りの記録(1回目)
東京都京王八王子駅

投稿日:2021年05月02日(日)
参拝:2021年5月吉日
『759年(天平宝字3年)、第47代淳仁天皇の皇后・粟田諸姉の御安産を祈願すべく、勅命を受けた橘右京少輔が草創したと伝えられる。』

橘右京少輔とは誰なのか。
少々興味がわき、右京少輔という位(従五位下)ならネットで分かる?であろうと。

まぁ、下記3点であることが前提の調査。
・出来事が、759年(天平宝字3年)であること。
・その出来事の年には、右京少輔になっており、後に右京少輔になったのでは無いこと。
・wikipedia で調べられる範囲であること。

あくまで素人の情報収集であります。
以下にリストアップ(6名)してみました。

まずは、右京少輔とは、右京職長官(右京大夫)の、1つ下の位(従五位下)の貴族。

759年(天平宝字3年)という時代背景から、757年(天平宝字元年)の「橘奈良麻呂の乱」の直後であり、なかなか、橘の名は名乗りにくく、しかも天皇の勅使だと言うからには、本当に、橘姓を持つ者か、橘奈良麻呂を陰で支えていた者、藤原仲麻呂に敵対心を持っていた者という感じでしょうか。。。


■橘綿裳(わたも)
橘綿裳(わたも)は、橘佐為の子。
759年(天平宝字3年)6月16日に従五位下、7月3日に左大舎人助に叙任し、その後も、右京大夫となっております。その大舎人助という役割は、天皇の様々な用事をこなしたとあり、縣犬養三千代の孫、橘佐為の子、橘綿裳(わたも)が、ほぼ、橘右京少輔の可能性が断トツで高いと思われます。

その他の、橘姓の可能性は、たぶん有りません。縣犬養三千代の子、橘諸兄と橘佐為はすでに亡くなられており、橘諸兄の子、橘奈良麻呂は、乱の張本人で757年に獄死したと言われております。その橘奈良麻呂の子たちは、未だ従五位下に至っておりませんでした。

橘佐為の子たちの中では、橘古那可智はすでに位が高すぎで、橘綿裳以外では、いずれも未だ従五位下に至っておりませんでした。



■藤原縄麻呂(ただまろ)
藤原縄麻呂は、藤原豊成の子。
兵部少輔、侍従、備中守。

橘佐為の娘、橘真都我が嫁いだ、藤原乙麻呂ですが、乙麻呂じたいはすでに位が高すぎで、子は未だ従五位下に至っておりませんでした。
次に、藤原乙麻呂の兄弟から、藤原豊成は、橘奈良麻呂の乱事件の究明に努めなかったことや、藤原豊成の子、藤原乙縄は、橘奈良麻呂と親しかったとのこと。そのことから、藤原豊成の子の、藤原縄麻呂は、橘家と親戚であり、名乗った可能性が若干有るかなと。橘真都我の子であれば名乗る可能性がかなり高かったですが。。。

あと、藤原仲麻呂も藤原乙麻呂の兄弟ですが、藤原仲麻呂の子で該当するのは6名。
しかし、後の藤原仲麻呂の乱で、父とともに戦死・処罰されており、橘を名乗る可能性はまったく無い?と言えます。


■紀諸人(もろひと)
橘姓と紀姓は、音読みが「キツ」と「キ」で紛らわしいことから混同されていたとのこと。
該当は1名で、紀諸人は、征蝦夷副将軍(当時、従五位下・内蔵頭)に叙任されていました。

■粟田奈勢麻呂(なせまろ)、粟田人成(ひとなり)
無関係かも知れませんが、皇后の粟田一族では2名が該当し、粟田奈勢麻呂が従五位上~正五位下。粟田人成が従五位下、少納言。

■田中多太麻呂(ただまろ)
さらに無関係かも知れませんが、この時期に武蔵方面に来たと推測されるのが、田中多太麻呂で、従五位下、中衛員外少将、鎮国衛次将、上総員外介。


橘右京少輔さま。
あくまで素人の雑な調べ方ですが、真面目に調べたので、リストアップした6名の頭文字から『ワタも泣ひた』と喜んでいただけましたでしょうか。

以上となります。。。
橘社の本殿

すてき

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