おおたひめいなりじんじゃ
御朱印・神社お寺の検索サイト
楽しみ方太田姫稲荷神社のお参りの記録一覧
絞り込み

太田姫稲荷神社は江戸城を最初に築いた太田道灌に縁のある神社です。現在は、三井住友海上火災本社ビルの西側に社殿があり、例大祭は隔年の5月に開催されています。
1457年(長禄元年)、太田道灌は娘が重い疱瘡にかかった時に、京にあった一口稲荷神社(いもあらいいなりじんじゃ)を江戸城内に勧請遷座しました。その神社がのちに江戸城鬼門から城の外に出て、神田錦町、そして神田駿河台の地に移り、現在の社になりました。
社殿は、当初は駿河台淡路坂にありましたが、大正期の総武線御茶ノ水・両国駅間の工事のために移転して、現在の地に落ち着きました。この駿河台淡路坂とは、JR御茶ノ水駅の聖橋口を出て左側の秋葉原方面へ向けて下る急坂のことで、坂の入口には今も「元宮」と書かれた木札が、歩道橋近くの椋(むく)の大樹に下がっています。(千代田区ページより)
御朱印は自分でハンコを押す形のものだ。
太田道灌の名がそのままあるし、大きな神社で宮司さんもいるのだろうと勝手に思っていたのだ。
実際には小ぶりな神社で、それでも綺麗に管理されていた。町内会の方が心を込めて掃除をされている最中であった。
神田には小さな神社が多い。神田明神に多くの参拝者が行くからだろう。
あまり目に触れられない脇道の片隅にある。
神田はとにかく道が複雑でGoogleマップがないと歩けない。
ここも、町内会の方たちが守ってくださっているのだなと感謝した。
と言いつつも、町内会の方々からすると、神田の街を神様が護ってくださるということなのだろう。
小さな庭も整備されており、山吹の季節に来るべきだったなと後悔。
イヤイヤ、又来よう。
古くからある疱瘡は、江戸時代にも最も恐れられた病気の一つ、感染力が強く致死率も高かったから太田姫稲荷神社には疱瘡を恐れて多くの人が参拝に訪れたことだろう。
太田姫稲荷神社の創建は室町時代、長禄元年(1457)、太田道灌(おおたどうかん)が江戸城を築いた頃のことだ。境内にある碑には、だいたい次のような神社の縁起が記されている。
太田道灌の最愛の娘が当時大流行していた疱瘡に罹りだんだん悪化していった。ある日、道灌は知人から「山城国(京都)の一口(いもあらい)稲荷社に祈願すれば平癒する」と聞く。そこで道灌は早速使いを立て祈祷したところ、姫の病は快方に向かい完治した。
喜んだ道灌は山城国から一口稲荷社を勧請し、江戸城内に一社を建立。道灌はこの社を崇拝し、姫もまたこの社を深く信心して仕え、やがて一口稲荷は太田姫稲荷とも呼ばれるようになった。
この神社の隣には日大病院がある。感染症の専門医もいるであろう。今現在、多くの病はワクチン接種を子供の時に打ち、かかる事もない。
だから、室町時代の頃の信仰心というものはわからないのではないかと思うのだ。
何しろ、寺の家族でさえ、「マスクをしましょう」「コロナ怖い」「感染したら檀家さんのせいやねん」などという21世紀だからだ。
ある意味、他人を呪わない時代だったような気持を持ち、感謝の念をしたのだった。
枯山吹 道灌祈願 江戸の地よ
もっと読む




太田姫神社は、江戸城を築いた戦国武将・太田道灌に深く縁のある神社です。その起源は1457年(長禄元年)、太田道灌の娘が重い天然痘(疱瘡)を患ったことにあります。当時、京に鎮座していた「一口稲荷神社(いもあらいいなり)」が天然痘平癒に霊験あらたかであると聞いた道灌は、分霊を江戸城内に勧請して祀りました。これが現在の太田姫神社の始まりです。
● 天然痘平癒の信仰と「いもあらい」の由来
「いもあらい」という地名の由来には、天然痘平癒を祈願して霊水で患部を洗い清めたことが関係していると伝えられています。「ゑも(潰瘍や膿の意)」を洗う=「いもあらい」という呼称が地名や神社の信仰に根付いていきました。道灌の娘が病から回復したことで、この神社は江戸市民からも厚い信仰を集めるようになりました。
● 社殿の移転と現在の場所
もともと江戸城内に祀られていた一口稲荷神社は、城の鬼門を護る存在として神田川沿いの神田駿河台へと移され、その後、大正期の鉄道工事を契機に現在の場所(三井住友海上火災本社ビル西側)に社殿が移転しました。昭和3年(1928年)に再建された現在の神社は、当時の伝統を受け継いでいます。
太田姫神社と御利益
● 風邪や咳封じの守護神
江戸時代から明治・大正にかけて、太田姫神社は「風邪咳封じ」の御守として多くの人々に信仰されてきました。社伝に残る古い判木を用いた御神札は、当時の町々に広く流布されており、現代でもその歴史的価値が伝えられています。また、咳や風邪のまじないには、供物として里芋を捧げたため「芋稲荷」とも呼ばれていました。
● 太田姫命と狐の伝説
太田姫神社の名称にある「太田姫」とは、太田道灌の娘を指すものではなく、「太田姫命」という神様の名前です。伝説によると、狐の姿をした太田姫命が道灌のもとに現れ、御告げをしたとされています。

神田駿河台にご鎮座される太田姫稲荷神社はもとは一口稲荷(いもあらいいなり)と称し、小社ながらも大変由緒のある伝承をもつ神社になります。
【創建について】
長禄2年(1458)太田道灌が娘の疱瘡平癒を祈り江戸城内に山城国一口里(いもあらいのさと)より勧請したとあります。
他にも慶安元年(1648)9月若松菊次という人の寄付で建立されたとする話や、元和元年(1615)建立とする話もありますが、これらは年代から、家康の江戸城改修の際に遷座された時の話かもしれません。
【縁起】
承和6年(839)小野篁(おののたかむら)が隠岐国への配流中に海が荒れ、身の危険を感じ観音経を唱えると、白髪の老翁神が出現し
「才識秀れた汝は程なく都へ帰れるだろう。しかし疱瘡を患う兆しがみえるので我が身を写して祀るがよい。さすればその憂なかるべし。」
と告げられ、お告げを護り自ら翁の像を刻んで護持し、後に山城国一口里に神社を祀ったとされます。
---------------
一口とは「疱瘡(いも)を洗い落とす」の意味で、疱瘡除けを祈願する疫神の社のことです。後に太田道灌が勧請したとされるこの社は、京都府久世郡の「豊吉(ほうよし)稲荷神社」ではないかとされています。
証明する資料はありませんが、昭和58年に太田姫稲荷神社の氏子家の娘さんが、京都府宇治市へ嫁いだことがきっかけで、本社・分社の友好関係を結ばれたとの話があるそうです。
この縁起の中に出てくる老翁神は、自らのことを「太田姫命」と名乗りました。
後に太田道灌の前に白狐が現れ鬼門に祀れと告げたのもこの神と言われています。
私は今回調べるまで、ずっと太田道灌の姫さんにちなんで「太田姫」なのだと思い込んでいたので、白髪のお爺様が姫?
…(・o・)…?と最初混乱しました笑💦
古い縁起には「洛陽東寺の鎮守・太田姫命」と名乗っていることから、弘法大師が出会ったという稲を荷なった老翁神のことだと推察されるようです。
【4つの太田姫稲荷神社】
かつて太田姫稲荷神社と称する神社は江戸市中の4ヶ所に祀られ、江戸城の四方の鬼門除けとされていたという古老の伝承があるといいます。その社とは、
①駿河台(当社)
②麹町(駿河台の分社)
③東京駅のあたり(すでに場所はわからない)
④現在の九段北にある一口坂のあたり(明治の頃坂の上に小祠があったらしい。それが太田姫稲荷かはわからないが、坂の名が一口なので可能性は高い)
この4社とされています。
伝承を裏付ける証拠は残っていないそうですが、私の知るところでは、神奈川県座間市にも「四方固めの稲荷」といって4つの稲荷社で村に結界をはり守っていた伝承があるので、こういうのは、もしかしたら知らないだけでいろいろな地域であるのかもしれません。
太田姫稲荷神社は学生時代によくお参りさせていただきました。今回はその懐かしさと、太田道灌公ゆかりの神社巡りとして再び訪れたのですが、こんなに興味深い伝承があったとは。
参考にさせていただいた文献は大変面白く、その取材力に頭が下がります。(見習いたいです)興味がありましたらぜひ読んでみて下さい。
※参考・引用文献※
西郊民俗1993(145)
いもあらいの神―東京都千代田区太田姫稲荷神社/長沢利明

最新の限定御朱印情報が届く!
御朱印メルマガを受け取ろう
利用開始をもって利用規約・プライバシーポリシーに
同意したものとみなします。

ホトカミで困ったこと、不具合のご報告はこちらから
お問い合わせ






























































