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湯島聖堂ではいただけません
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ゆしませいどう

湯島聖堂のお参りの記録(1回目)
東京都御茶ノ水駅

投稿日:2022年10月06日(木)
参拝:2022年10月吉日
以前、神田明神様へ行ったときに気になっていたけど寄らなかった「湯島聖堂」様へ今回は行ってみました😊
建物はドーンとあるのに入口がわからず💦私の他にも3人位ウロウロしていました😅

【湯島聖堂】

湯島聖堂は、もと上野忍ヶ岡にあった幕府儒臣·林羅山の邸内に設けられた孔子廟(先聖殿)を元禄3年(1690年)、五代将軍綱吉がここに移し、先聖殿を大成殿と改称して孔子廟の規模を拡大·整頓し、官学の府としたのが始まり。この時からこの大成殿と附属の建造物を総称して「聖堂」と呼ぶようになった。

こののち、寛政9年(1797年)十一代家斉のとき規模を拡大し「昌平坂学問所」を開設、官学のとしての威容も整った。この時の設計は、かつて朱舜水(中国明朝の遺臣)が水戸徳川光圀のために製作した孔子廟の模型が参考にされた。また、これまで朱·緑·青·朱漆などで彩色されていたものを黒漆塗りとした。

現在のものは、大正12年(1923年)9月1日関東大震災により、罹災、入徳門·水屋を残し全て焼失、これを斯文会が復興計画を立て、昭和10年(1935年)に再建したものである。復興聖堂の規模結構すべて寛政9年当時の旧聖堂に拠り、木造であったものを耐震耐火のため鉄筋コンクリート造りとした。祀られる孔子像は、朱舜水亡命時に携えて来たものが大正天皇に献上されていたもを御下賜された御物である。

孔子を祀る祭典である釈奠(セキテン)は、江戸時代には春秋2回、現在では毎年4月の第4日曜日の午前10時より、神田神社神官により執り行っている。

ー湯島聖堂HPよりー
湯島聖堂の建物その他
☆案内図☆
お茶の水公園を過ぎて少し進むと左側に小さな入口(西門)があり、横に案内図がありました😊
湯島聖堂の山門
☆入徳門☆

木造、平家建。切妻造り。延面積14.16m2
宝永元年(1704年)建造。
入徳とは、朱熹の「大学章句序」「子程子曰、大学、孔子之遺書而初学入徳之門也。」による。上野忍ヶ岡の林家の先聖殿創建時にも入徳門有り。曲阜の孔子廟には無い。江戸官学、朱子学の影響か。聖堂内、唯一の木造建造物。

額(入徳門)-藤原基輔の筆
※藤原基輔(ふじわらもとすけ 江戸中期の人)
持明院基輔と称す。藤原氏北家頼宗の流れ、中御門の諸流の持明院家の人。
持明院家は、藤原道長の子右大臣頼宗の孫基頼を祖とする。家名は基頼が邸内に建立した持仏堂を持明院と名付けたのに由来する。
室町時代末、持明院家の基春の時に世尊寺流の書を修め、以降能書を以て朝廷に仕えた。また、家業を神楽·鷹匠を有する
江戸時代、家禄二百石を給せられ、基輔は宝永年間には前参議正三位として朝廷にあった。
湯島聖堂の山門
湯島聖堂の山門
入徳門を入ると階段の正面に杏壇門が見えます😊
湯島聖堂の手水
☆手水舎☆
入徳門を入った右側にあります。
湯島聖堂の山門
☆杏壇門☆

間口20メートル、奥行4.7メートル、入母屋造り。
杏壇とは、山東省曲阜にある孔子の教授堂の遺址のこと。宋の乾興のとき、大殿(大成殿)を後方に移し、教授堂(講堂)の跡地を瓦敷きにして壇(高台)とし、周囲に杏を植え、金の党懐英が「杏壇二字碑」を建立。のちそこに門扉が設けられ、杏壇門の名称が付けられました。

額(杏壇)-徳川家達公の筆(元、持明院基輔(藤原基輔)の筆。)
※徳川家達(とくがわいえさと 1863年-1940年)
明治から昭和時代前期の華族。公爵。徳川宗家大16代。斯文会第二代会長(大正11年~昭和15年)。幼名亀之助、号は静岳
文久3年(1863年)田安家三男として江戸城内で生れる。明治元年朝旨により徳川宗家を相続。2年、静岡藩知事となるが廃藩置県によりこれを免ぜられる。
明治10年から15年まで英語留学、17年公爵を授けられる。
明治17年から昭和8年まで貴族院議長。この間、大正3年組閣の内命があったが、これを辞している。
大正10年、11年のワシントン会議には加藤友三郎、幣原喜重郎とともに全権委員として出席。
済世会会、日本赤十字社社長、日米協会会長、華族会館議長などを務めた。昭和15年逝去。78歳。同年大勲位に叙せられ、菊花大綬章を授けられた。
湯島聖堂の本殿
☆大聖殿☆

間口20メートル、奥行14.2メートル、高さ14.6メートル、入母屋造り。
大成とは、孔子廟の正殿の名称。
宋(北宋)の仁宗のとき命名。
「孟子」万章下「孔子聖之時者也、孔子之謂集大成、集大成也者、金聲玉振之也。」に基づく。
殿内、中央の神龕(厨子)に孔子像。左右には四配として孟子·顔子·曽子·子思の四賢人を祀っています。

額(大成殿)-伏見宮博恭王の筆(※元々は徳川綱吉の筆による。)
※博恭王(ひろやすおう 1875年-1946年)
明治から昭和時代前期の皇族、海軍軍人。斯文会初代総裁。
海軍将校としてドイツ海軍大学校を卒業後、艦隊勤務に就く。日露戦争時には戦艦三笠分隊長として出征し、黄海海戦で負傷。
のちにイギリスに中佐として駐在したあと、戦艦朝日·巡洋艦伊吹の艦長を経て大正2年将官に進む。
海軍大学校長、艦隊の司令官·司令長官を歴任して11年大将となり、東郷平八郎と並んで日本海軍の二大長老の地位に立つ。
昭和7年海軍軍令部長ついで元帥となり、海軍軍令部の改編により軍令部総長となって昭和16年4月まで務める。

土日祝のみ扉が開いています。
お伺いしたとき、大成殿の前で沢山の方が気功をしているところだったので、中には入らず杏壇門の所からお参りしました。
湯島聖堂の山門
杏壇門の所から入徳門をパシャリ📸
門を出て左に進むと斯文会館があり、御朱印はそこでいただけます。
湯島聖堂の像
☆孔子銅像☆

昭和50年(1975年)中華民国台北市 ライオンズ・クラブからの寄贈。
11月3日除幕式を挙行した。
丈高15呎[4.57メートル]重量約1.5トンの孔子の銅像は世界最大。
湯島聖堂の山門
☆仰高門(ぎょうこうもん)☆
鉄筋コンクリート造。平家建。切妻造り。
延面積10.73m2、昭和10年(1935年)4月竣工。
仰高とは、「論語」子罕第九「顔淵喟然歎曰、仰之彌高、鑽之彌堅。」による。
曲阜の孔子廟では、西方にある。一般見学者用の入り口になる門。
上野林家の先聖殿創建時には無い。元禄3年、湯島移築の際には見える。

額(高柳)-徳川圀順公爵の筆(元、持明院基輔(藤原基輔)の筆。)
※徳川圀順(とくがわくにつぐ 1886年-1969年)
明治から昭和時代前期の華族。公爵。水戸徳川家第13代当主。
斯文会第3代会長(昭和15年~昭和20年)。陸軍少将として終戦を迎える。
日本赤十字社副社長などを務める。
湯島聖堂の御朱印
通年御朱印
御朱印を書いていただいてる間、待たせてもらった所にいらっしゃいました😊

すてき

御朱印

令和4年 通年御朱印 『湯島聖堂』
令和4年 通年御朱印 『湯島聖堂』

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