くまのじんじゃ
熊野神社の編集履歴
ご由緒
数多くの神社の例に漏れず、当熊野神社においても、御創建について、いつ、誰が、という明確な記録は残っていません。しかしながら、いくつかの関係資料を総合しますと次のようになります。
まず、最も古いものとして、姓氏家系大全中に、以下の記事があります。
「元亨年中(1321年〜1323年、執権北条高時の時代)、紀州より江戸方面開墾のため、富田、長田、鈴木、橋爪氏等の此の新井宿に移住せし時、自らの氏神、熊野本宮、新宮、那智の三社を勧請し、熊野神社を創立す」
此の記事の中で、長田という名前は、春日橋交差点の近くの長田(オサダ)稲荷というお社に残っており、また、橋爪氏の家系は今でも続いていらっしゃいます。
次に、江戸時代の記録として、新編武蔵風記、荏原郡、巻の五に、「熊野神社、稲荷社より猶山上にあり。本社二間に一間(奥行が二間で、間口が一間)、覆屋あり。元和年中、日光御遷宮のとき(1615年)、地頭木原大工(タクミ)は其の頃大工の棟梁なりしかば、かれは御造営のことを命ぜられ、落成の日、御祝式の飾に用いられし冑を神体とし、御造営の余木(アマリギ)を以て此の社を造り、熊野權現を祀(マツ)れり」とあります。
此の記事の中での稲荷社は、別の記録から見ても、現在、女坂の石段の途中にあって、義民六人衆の徳をたたえてその名が呼ばれている、衆善稲荷を指していると言えます。
また、昭和44年の御改築の際出来上がった、鉄筋コンクリート造の御本殿内に御納めされた元々の御本殿は、奥行二間、間口一間であり、以前は屋根だけの上屋(ウワヤ)に覆われていた状況は此の記事の通りです。此の木造の御本殿は大田区内の神社の中では最も古く、また、境内東口の鳥居(昭和15年に男坂石段の麓から移設)は「寛政8年(1796年)建立」と刻まれており、区内で二番目に古いものです。
前掲の木原家文書の中で、木原家第四代義久は、寛永20年(1643年)に、「社を再興し奉り、是を本宮とあがめ、中段の地をひらき、新に社を建て、新宮と称してたてまつる。」と記しています。さらにまた、前掲の新編武蔵風土記の中でも、熊野本社の記事に続いて、熊野新宮として、「本社と同じ山つづきにして、南の方にあたれり。社は二間半に二間、内陣九尺の一間、勧請の年代はつたえされど、本社建立の後のことなれば、ちかき社なるべし。社前に鳥居をたて、其の前に石段あり。」という事が書かれています。しかしながら、此の新宮の事は全く判りません。今から約70年前まで、当神社の隣にあった広大な間島邸の中に大きな築山があり、御当主の間島松太郎氏のお話では、此の山は新宮山と呼ばれていたとの事です。此の山は、間島邸の分譲工事の際切崩され、今では全く跡を留めておりません。なお、新編武蔵風土記には、「末社疱瘡(天然痘の俗称)社、本社に向いて左にあり、小祠。天神社、これもわづかなる祠なり、同じ所にあり。」と記されてあります。この二つの小祠は、何れも石積みの基壇の上に、石を刻み込んで作った、高さ70〜80センチメートルの小さな宮形としてあった事は小生の記憶に残っています。しかしながら、お粗末になるといけないから、との先代宮司(大野政顕)の考えで、これらの神様は現在の衆善稲荷の中に合祀されております。
ここで再び木原家と熊野神社との結びつきを木原家文書からご紹介しますと、次の通りです。
「新井宿の領主木原七郎兵衛吉次は、其れ元、神饒速日尊より出でて、紀州勝浦の城主、鈴木因幡守重秀孫葉、鈴木三郎重家の苗裔なり。もとより熊野大神を以て祖神と崇む。先祖中興足利将軍家奉仕、其の後今川に属し、父吉頼より吉次に至り、東照大神宮に奉仕、今川より己来、遠州木原の郷司としてよって住居す。大神君常に木原と呼ばせたまひ、即ち木原の在名に改む可き旨、天野三郎兵衛景康を以て仰せ付けられ、それより鈴木を改め、木原を以て称号とす。天正十八康寅の年(1590年)、大神君関東八州御領国となりて御国替えの時、御家人各々大小となく領地替代の節、七郎兵衛吉次も遠州木原の旧地替代、当郷新居宿村を給いて食邑とす。此の邑のうちに古来より熊野神社あり。麓に之れ有る善慶寺これを守る。元より熊野權現は吉次祖神にして累代是を敬う。殊に旧領木原郷にもむかしより此の御社ありて、木原權現と称し、今又領せしむる邑の内に此の御社の有ること、神徳に叶う幸いと悦び、吉次、即ち社殿を造営せしむ。其の後大神君の御代、天下一統となりて、諸人万歳をとなう。大神君の御嫡孫、家光君の御時、吉次四代の孫、木工允(タクミノカミ)義久、代々続いて新井宿を領する事、凡そ八十余年、義久、別而權現をうやまう。・・・・・」