おきのみやじんじゃ
興之宮神社のお参りの記録一覧
御祭神 天照皇大神
境内掲示による興之宮神社の由緒】
興宮天祖神社改修と境内整備完成に当り神社の由緒と歴史の概要を残された文献と口碑とを中心として後世に伝えんとして記す。興宮神社の祭神は天照皇大神を主体とし香取鹿島両神宮のニ体が合祀されている。創立年代は不詳であるが鎌倉時代の関東の豪族葛西三郎清重の家臣一式某なる者の領地であったと伝えられる。徳川幕府初期即ち寛永7年10月建設と古書にある。当興宮神社を東の宮、本一色天祖神社を西の宮と呼び両神社の因縁深き事は今に至るも尚継続している。江戸時代末期の文献には幕府直轄の代官支配下の幕府直納の米の生産地であった地名は武蔵国東葛西領興之宮村と呼ばれた。村の面積は22町歩、戸数は十数戸人口百十数人と言う寂しい農閑村部落であった。神社の境内は約4反分、別に田畑3反余の財産があったがこれは戦後農地法に依り耕作者の所有となった。凡そ神社仏閣の維持は有力な氏子崇敬者或いは特別な支援協力なくして維持運営は難事である。その点に欠けた当神社の維持は全く容易ならぬ事であったと当時の村人我々祖先の苦労を偲び感無量なるものがある。太平洋戦争の終焉に伴い、国民感情は正に虚脱状態となり、一般国民生活は極度に窮迫の一途を辿るのみ、今や神に対する信仰概念や境内整備等への関心は殆んど絶無である。従って神殿境内は放置され勝となり斯くし三百年の歴史を閲して今日に至った。
茲に於いて社殿の大改修と社務所の新築、境内の整備の必要を痛感し、日々に荒みゆく国民感情の融和と社会福祉の一端なりにも寄与し氏子の切実な要望に応へんが為、境内一部の宅地変更によりこれが資金に充当し氏子負担を避け即ち神社自体の財産により一切を賄うべく企画し、これが実現に専念した。
手水舎
拝殿
本殿
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