おおたじんじゃ
太田神社の編集履歴
ご由緒
南無八幡大菩薩、我が国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、願はくは、あの扇の真ん中射させてたばせたまへ(『平家物語』より)
寿永四年(1185)二月、屋島の戦いにて那須与一宗高公が祈念して放った矢は、見事扇を射抜きました。『平家物語』にも描かれるこの逸話は広く知られるところですが、当社は、その那須与一公が守本尊とした神像を御神体として安置し、古来よりその故事に因んで「願えば叶わぬこと無し」と厚く信仰されております。また那須与一公が一本の矢一発で見事扇を射抜いたことから、一度の挑戦をものにしなければならない入学祈願・学業成就祈願、スポーツ競技の勝利祈願などにご利益があるとされて、古くより多くの参拝者が御祈願に訪れます。『学研 歴史群像シリーズ⑬源平の興亡に記述』
鎮座年月は不詳ですが、文化、文政期に編まれた『新編武蔵風土記』には既に当社の事が奇祭されており、さらに当社保存の明細帳には、天明三年(1783)に氏子三十一戸にて、社殿を再建した記録が残されています。さらに戦前には三百年以上の年輪老松が存在し、大森、羽田方面の漁船の出入の目標にもなっていたこと等から、恐らく当社の創建は三百五十年以上も前に遡るものと推測されています。
当社は古くは「八幡社」と呼ばれていましたが、明治五年から十年の間に「太田神社」と改称されました。その理由は不詳ですが、『北条分限帳』では、当時の市野倉から六郷までを所有していた太田新六郎の氏神だったことから「太田神社」と改称したと伝えています。さらに太田道灌が江戸城築城の際、この地を候補地とし遊猟の折に検分したためという説も存在し、いずれの説が正しいかは確証がありません。
明治以前の神仏混淆時代は、覺應山長勝寺が別当として管理していましたが、明治初年の神仏分離以降独立し、現在では上神明天祖神社(品川区)宮司の齊藤泰之氏が太田神社の宮司も兼ねて御奉仕しています。明治四十五年四月二十五日には、周辺にあった竈神社、稲荷神社、貴船神社(貴船神社は元本門寺の鬼門除として東の院に建立した後に長勝寺の境内に遷した)を合祀し、昭和五年八月十一日には旧社殿を移修しましたが、惜しくも昭和二十年五月二十四日の大空襲で、社殿・舞殿とも焼失してしましました。しかし木造衣冠装束の御神体は覺應山長勝寺に安置されていたため、奇跡的に難を免れ現在に至っています。
戦後間もなく氏子会が結成され、昭和二十八年に拝殿が造営されました。その際、別当寺の覺應山長勝寺に一時的にお遷ししていた御祭神は、旧市野倉町内を巡行した後、真新しい太田神社社殿に遷座されました。その後平成六年に本殿の造営が行われますが、万一の火災に備えて、完全耐火構造の鉄筋コンクリート造りで施工されました。実に空襲による焼失以来四十九年振りの御本殿造営となりました。
その他境内には、明治三十四年に氏子より奉納された狛犬、昭和七年に氏子により奉納された御影石の鳥居、昭和三十五年に造営された社務所、昭和五十年に造営された神輿倉などがあります。