せんりゅうじ|真言宗豊山派|御瀧山
泉竜寺(乙女不動尊)の御由緒・歴史
ご本尊 | 本尊 大日如来
札所本尊 不動明王 | |
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創建時代 | 正慶2年(1333年頃) | |
ご由緒 | 寺は正慶2年(1333年)に建立されたが、観応2年(1351年)、兵火に逢い灰燼に帰してしまう。その後、永徳2年(1382年)再度建立されたのも束の間、小山義政が反逆を起こした際に、鎌倉公方左兵衛督足利氏満が兵を率いて討伐に討って出たのであった。しかし、山野に放火された火が堂に引火、これを焼失してしまう。以降、至徳3年(1386年)の小山若犬丸の乱など、数度に及ぶ戦火に遭遇、それでも、不動明王像は厳然として戦火に出ていき、その慈救の威相はさらに輝きを増していったという。そのため、火伏の不動ともいわれている。泉龍寺は三度寺地を替えている。1度目は乙女寒沢の不動塚より不動原へ。これは共に鎌倉街道沿いであった。2度目は大永年間に不動原より日光街道沿いとなる乙女字西館の地へ。そして3度目は昭和に区画整理事業のため元の不動原へ移転し現在に至っている。 慶長11年(1606年)江戸幕府より寺領を賜り、以降御朱印地として歴代の徳川将軍より「不動仏供領」の寺領朱印状を受けている。江戸時代も半ばになり、不動堂もいたんできた。ときの泉龍寺住職、淳元上人の発願で正徳2年(1712年)不動堂を新しくすることとなった。乙女村はもとより、古河・小山などの近郷近在、江戸など遠方の往来者が金品や仏具、また金銭はなくとも建設に参加するなどして布施をした。中でも乙女の住人青木美朝と江戸横山町の植木助五郎義豊が大施主として布施をした。正徳4年、不動堂は完成し、それを機に不動明王像は秘仏となり扉の奥に安置され、その前に御前立ち本尊として不動明王坐像を安置することとなった。以来25年目に一度、二まわり目の午年に秘仏を開帳し、長日護摩を厳修することとなった。 寺号の由来は、ある時、疫病に悩む庶民の苦しみを救うために本尊に祈祷したところ、この地に清らかな泉が湧き出て、その病がたちまちにして治ったことから、泉龍と号すようになったといわれている。また、不動堂を背にして左前に不動池といわれる水行場があり、端に水掛け乙女不動尊の像が美しく佇んでいる。 |
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