はちまんぐう
八幡宮 (上羽田町)の編集履歴
ご由緒
承平六年(936)田原藤太秀郷が、朝敵将門討伐の命を承け、当郷まで出馬。
秀郷は宇佐八幡宮を奉じて戦勝を祈願し、其の擁護により、遂に賊を平げて唐澤城を築いた。
天慶五年(942)現在の社殿の後方に兵器を埋めて塚を造り、所道塲塚と呼んで宮殿を建て、唐沢山城の裏鬼門鎭護としした。
この頃は、和氣の王子という人物が神子として宮仕していたが、和氣氏帰京の後は奉仕するものが暫くなく、永和年間(1375~1379)に到って佐野家にて代々修繕を加え崇敬の社となった。
佐野家廃絶後は近村七郷の鎭守と崇められ、永禄十年(1567)八月、下羽田村にも分祀される。
元録八年(1695)宮殿再建の際に今の慮へ遷座、その際、「刀劍の類朽ち錆ひて寸断となれるもの地底より發見せし」とあり、また再建は本殿の棟札に明記された正しい記録と解った。
明治五年(1872)郷社に列せられる。昭和六十三年(1988)三月火災により焼失するも、再建のため平成元年(1989)十月起工し、平成二年(1990)十月三殿及び参道、神楽衣装庫が完成し、遷座式を斎行。
編集前:承平六年(936)田原藤太秀郷が、朝敵将門討伐の命を承け、当郷まで出馬。
秀郷は宇佐八幡宮を奉じて戦勝を祈願し、其の擁護により、遂に賊を平げて唐澤城を築いた。
天慶五年(942)現在の社殿の後方に兵器を埋めて塚を造り、所道塲塚と呼んで宮殿を建て、唐沢山城の裏鬼門鎭護としした。
この頃は、和氣の王子という人物が神子として宮仕していたが、和氣氏帰京の後は奉仕するものが暫くなく、永和年間(1375~1379)に到って佐野家にて代々修繕を加え崇敬の社となった。
佐野家廃絶後は近村七郷の鎭守と崇められ、永禄十年(1567)八月、下羽田村にも分祀される。
元録八年(1965)宮殿再建の際に今の慮へ遷座、その際、「刀劍の類朽ち錆ひて寸断となれるもの地底より發見せし」とあり、また再建は本殿の棟札に明記された正しい記録と解った。
明治五年(1872)郷社に列せられる。昭和六十三年(1988)三月火災により焼失するも、再建のため平成元年(1989)十月起工し、平成二年(1990)十月三殿及び参道、神楽衣装庫が完成し、遷座式を斎行。
ご祭神/ご本尊
《主》誉田別命
《境内社》招魂社 (消滅)
編集前:《主》誉田別命
ご神体
道場塚