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梁田招魂社の編集履歴
2023年06月08日 14時01分
ご由緒
招魂社社殿は、大正初年、南猿田 増田良助氏の寄付により、梁田小学校地内に建立。
村内 日清・日露以降の戦没者を合祀し、軍人分会が祭祀を行っていたが、昭和二十年 大東亜戦争終戦により、やむなく小生川鹿島神社に移し遺族会が祭祀管理を行っていた。
然し昭和二十九年 世情の著しい復興と、梁田村の御厨町合併に当面し、地区住民挙がって賛仰奉祀すべく役場敷地に奉還し併せて忠魂碑を建立した。
公民館建設に伴い昭和四十八年、三度この地に遷宮し、現在八十八柱の英霊が合祀されている。(境内の奉賛之碑より)
【弾痕の松】
梁田戦争で、旅籠「中山楼」の庭先にあって被弾した松。
梁田村に寄贈され、梁田小学校、梁田町役場と移植を繰り返したのち現在に至る。
弾痕は32cm×10cmほどで、コンクリートが詰められている。
編集前:招魂社社殿は、大正初年、南猿田 増田良助氏の寄付により、梁田小学校地内に建立。
村内 日清・日露以降の戦没者を合祀し、軍人分会が祭祀を行っていたが、昭和二十年 大東亜戦争終戦により、やむなく小生川鹿島神社に移し遺族会が祭祀管理を行っていた。
然し昭和二十九年 世情の著しい復興と、梁田村の御厨町合併に当面し、地区住民挙がって賛仰奉祀すべく役場敷地に奉還し併せて忠魂碑を建立した。
公民館建設に伴い昭和四十八年、三度この地に遷宮し、現在八十八柱の英霊が合祀されている。
(境内の奉賛之碑より)
【弾痕の松】
梁田戦争で、旅籠「中山楼」の庭先にあって被弾した松。
梁田村に寄贈され、梁田小学校、梁田町役場と移植を繰り返したのち現在に至る。
弾痕は32cm×10cmほどで、コンクリートが詰められている。
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