こうへいじ|真言宗豊山派
高平寺のお参りの記録一覧

🌼高岡山法幢院高平寺(ほうどういん こうへいじ)に参拝させて頂きました🙏🌸当寺院の開山は元慶元年(877)権大僧都宥栄であると称しているが、これからのち室町時代までのことは一切不明である。江戸時代には慈覚大師遺跡地の寺院として発展し、岩舟町に医王山実相院(上岡)
医王山法泉院浄蓮寺(羽抜)明治十年廃寺、満寿山自性院(新里)廃寺、医王山千手院清水寺(下岡)廃寺、金剛寺(茂呂)廃寺、明星山不動院(下津原盥窪)、神明山正覚寺(畳岡)・・・これは新里の自性院末寺、高平寺からは孫寺にあたるなどの末寺があり、その他藤岡・群馬県の邑楽郡等に存在したものをあわせれば十八カ寺におよびました。🌺宝暦6年(1756)7月に作成した高平寺の手洗窪由来によれば、慈覚大師は「此地ニテ産湯シ給ヒ当寺ニテ御成長ス」といっているが、これはこの寺の建っているところという意味とおもわれます。🍁この地に移ったの時代ははるかにおそく、この地に移ったも戦国時代末期のことだと云われています。☘️高平寺が真言宗に改宗したのは室町時代この寺の住持となった頼舜が小俣の鶏足寺空覚より慈猛流(密教の一派)をさずけられてからのことといいます。🍂滝水寺古日記によれば、高平寺が真言宗に改宗したのは慶長(1596~1614)のはじめとあり、そこにも寺の歴史を探究するむずかしさが存在しますが、とにかく戦国時代という大きな変動期を経て、そのような寺院の宗派の変化が生じたものだと云われています。🌼高平寺は小田原北条氏政・佐野宗綱の兵乱に焼失、ついで十四世成誉法印のとき、慈覚大師の遺跡地たる盥窪に移ったが、同寺は江戸時代にも寛保2年(1742)2月18日、本堂・庫裡焼失、文化10年(1013)11月6日、客殿・庫裡・土蔵等が焼失しています。
🌷🌷 岩船山から近くに「こまば亭」落ち着いた店構いで店の方も柔らかな喋り方で揚げ物🍤もうどん、蕎麦🍜も美味しく奥まったところにあるので、隠れ家的な和食のお店です🌷🌷
👣所在地 : 栃木県栃木市岩舟町下津原1457−2
🍲ソースカツ丼 大盛り と冷たいミニうどん
和食処「こまば亭」
御朱印 高平寺
高岡山法幢院高平寺(ほうどういん こうへいじ)
ぼけ封じ関東三十三観音霊場第20番札所
本 堂
※境内は芝生が敷き詰められ石仏などは置かれてないです
不動堂
※不動明王の憤怒の顔色に塗られている
客殿及び庫裏
※御朱印はここで頂きました
鐘 堂
弘法大師修行像
※境内にある石像は唯一お大師さまだけです
庭園入り口の朱塗りの橋
※本堂の裏に庭園と茶室が作られています
山 門
毛はえ地蔵尊とマニ車
※名前がユニークなので思わず笑みが・・
高平寺の日本庭園
岩船山から近くにある和食処「こまば亭」
ダイコンそば 和食処「こまば亭」

ぼけ封じ関東三十三観音霊場 第20番札所
遠くからでもよく目立つ朱の門が気になりました。
慈覚大師円仁が9歳まで養育されていた、由緒あるお寺なんです。境内は綺麗に整備されていて、みかも山の長閑な風景が蚊からの攻撃を癒してくれました、、いやいやいや痒いのは残ります。
朱の山門
門から見える正面の本堂
本堂
本堂が少し高くなっているので、鐘楼も向こうの景色もよくみえます。
百日紅と共に
横にはお庭があります。
お庭の奥のお社

慈覚大師円仁誕生地から南に1.5kmほど離れた三毳山東麓にあるお寺。
円仁が9歳まで養育されたお寺とのことです。
(その後9歳で出家して入ったのが小野寺の村檜神社前の大慈寺)
円仁と言えば天台宗三台座主ですが、このお寺は真言宗豊山派・・・どうしてこうなった(^^;
まぁ円仁の時代はまだ真言宗も天台宗も勃興期なので、当時はまだどちらにも属してなかったんでしょう。
(大慈寺の方は当時の道忠和尚がまさに円仁を最澄に弟子入りさせた立役者で、最澄自身が東国布教の足場としたほどの寺なので当時からガチ天台宗)
ちなみに慈覚大師もう一つの誕生地と称する壬生寺はシッカリ天台宗・・・やっぱり部が悪いw(ー_ー;)
御朱印は出してるらしいですが、残念ながらこの日は留守で受印できず。
三毳山
標高200mちょいの山ですが、一丁前にこの日は霞が掛かってました
山門
朱塗りの鐘楼
円仁所縁の寺だけど、立つのは慈覚大師でも伝教大師でなく弘法大師w
本堂
後ろには池のある庭園
円仁が修行した「行の井」
円仁が顔を写して自画像を描いた「面相智水」
上の方に赤い堂宇があり
祀られてる神仏は不明
フクロウ・・・たぶん(^^;
この向こうにも道が続いてましたが、今日は雨で行けず
栃木県のおすすめ2選🎎
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