御朱印・神社お寺の検索サイト

楽しみ方

編集詳細

2021年12月11日(土) 07時48分 by鳰の海

履歴一覧へ戻る
名前
編集前
竜沢寺
編集後
竜沢寺(龍澤寺)
ふりがな
編集後
りゅうたくじ
通称
編集後
龍沢僧堂
ご由緒
編集前
臨済宗(注1)妙心寺派(みょうしんじは)の寺で、白隠禅師(はくいんぜんじ)により宝暦11年(1761)9月に開山されました。境内には本堂、庫裏(くり)、禅堂、経堂(きょうどう)、鐘楼、不動堂、開山堂等が建っており、このうち経堂及び山門は江戸時代の豪商白木屋の寄進と伝えられています。開山堂内には白隠、東嶺(とうれい)、星定(せいじょう)、玄峰(げんぽう)の4老師像が安置されており、そのうち星定老師像は鏝細工(こてざいく)の名工、伊豆の入江長八の作として知られています。
 龍澤寺住職は代々老師として称えられ、多くの雲水(うんすい)の修行を導くとともに、日本全国から各界名士の来訪を受け、仏法(ぶっぽう)の教えを説いています。特に初期の白隠老師や東嶺老師、明治初期ごろの星定老師、大正、昭和期の玄峰老師は名僧として広く尊敬されており、明治維新のころには山岡鉄舟が星定老師のもとに参禅しました。また、終戦前後には、当時の首相鈴木貫太郎をはじめ、政界の大物が玄峰老師の助言を求めてしばしば来訪しました。戦後はイスラエル、アメリカ、ドイツ、フランスなどからも修行者が訪れています。
 平成12年(2000)現在、中川球童老師のもと約20名の修行僧たちが明け方3時半には起床、夜眠っている間も修行のうちといわれる厳しい修行生活を送っています。また、7の付く日には三島市内、2の付く日には沼津市内を「報恩(ほうおん)」と唱えながら、托鉢(たくはつ)して歩く僧の姿を見かけます。 
 紅葉の季節、毎年11月23日(祝日)の観楓祭(かんぷうさい)には、寺所蔵の掛け軸等の虫干しを兼ねて内部の-般公開が行われます。白隠老師をはじめ、一休、良寛、円山応挙、俵屋宗達、山岡鉄舟などの書や絵が本堂の各部屋にびっしり並んで掛けられるので、それらを見ようとたくさんの人々が訪れます。裏山には野点の席が設けられ、紅葉の木の下で抹茶をいただきながら静かなひとときを楽しむことができます。
 寺では毎月下旬に約1週間、接心(注2)があるため、境内への立ち入りは禁止となります。


(注1) 禅宗の一派。臨済宗と曹洞宗があり12世紀に中国から伝わった。教旨は仏教の真髄は坐禅によって直接体得されるものであるとする。
(注2) 禅宗で一定期間、昼夜を問わず坐禅に専念すること。
編集後
白隠禅師の開基。杉林に囲まれた静寂の地にあり、禅宗の道場として有名。

 紅葉の季節、毎年11月23日(祝日)の観楓祭(かんぷうさい)には、寺所蔵の掛け軸等の虫干しを兼ねて内部の-般公開が行われます。
白隠老師をはじめ、一休、良寛、円山応挙、俵屋宗達、山岡鉄舟などの書や絵が本堂の各部屋にびっしり並んで掛けられるので、それらを見ようとたくさんの人々が訪れます。裏山には野点の席が設けられ、紅葉の木の下で抹茶をいただきながら静かなひとときを楽しむことができます。

 寺では毎月下旬に約1週間、接心(注2)があるため、境内への立ち入りは禁止となります。
ご祭神/ご本尊
編集後
子安観世音菩薩
見所
編集前
「今白隠」といわれた
山本玄峰老師 (やまもとげんぽうろうし)
禅僧
慶応2年~昭和36年
(1866~1961)		山本玄峰老師の写真
 三島市沢地にある円通山龍澤寺第九代住持(注1)、山本玄峰老師は、慶応2年(1866)1月和歌山県湯の峰で生まれました。生後まもなく捨てられ、同じ村に住む岡本善蔵に引き取られ養育されました。19歳のとき、眼病にかかり失明を警告され、悩み苦しんだ老師は、仏にすがろうと一念発起し、23歳で、四国遍路はだし参りに出ました。そこで雪蹊寺の太玄和尚に出会い仏門に入りました。老師は太玄和尚を生涯の師と仰ぎ、和尚の下で得度し、号を玄峰と称しました。26歳から雲水の修行に旅立ち、厳しい勉学修業によって、学徳を身につけました。その後、太玄和尚と養子縁組をし、和尚遷化の後、雪蹊寺の住職を継ぎ、寺の復興を図りました。
 
 大正4年(1915)に老師は三島市の龍澤寺に入山し、当時廃寺寸前だった寺を復興させることに力を注ぎました。地域の人々とも親密に交流し、寺の繁栄に大きく貢献しました。叡知に富み、人徳も厚く、加えて豪放磊落(ごうほうらいらく)(注2)な人柄は多くの人々を引き付け、強い影響を与えました。山本玄峰の名声は全国に広まり、老師の導きを受けに政財界の大物たちが、馳せ参じています。中でも、終戦時の総理大臣鈴木貫太郎や吉田茂、池田勇人両総理大臣など、日本の政治の中枢を担う人たちに対し、歯に衣着せぬ意見と助言とで、老師は時代の転換期に大きな役割を果たしました。
 96歳で入寂(注3)した老師は、その一生を禅道の興隆に捧げ、後に「今白隠」、「最後の禅僧」と言われるほどの高僧となりました。

(注1) 寺の長である僧。住職。
(注2) 心が大きく、小さなことにこだわらないこと
(注3) 僧の死のこと。
編集後
 三島市沢地にある円通山龍澤寺第九代住持、山本玄峰老師は、慶応2年(1866)1月和歌山県湯の峰で生まれました。生後まもなく捨てられ、同じ村に住む岡本善蔵に引き取られ養育されました。19歳のとき、眼病にかかり失明を警告され、悩み苦しんだ老師は、仏にすがろうと一念発起し、23歳で、四国遍路はだし参りに出ました。そこで雪蹊寺の太玄和尚に出会い仏門に入りました。老師は太玄和尚を生涯の師と仰ぎ、和尚の下で得度し、号を玄峰と称しました。26歳から雲水の修行に旅立ち、厳しい勉学修業によって、学徳を身につけました。その後、太玄和尚と養子縁組をし、和尚遷化の後、雪蹊寺の住職を継ぎ、寺の復興を図りました。
 
 大正4年(1915)に老師は三島市の龍澤寺に入山し、当時廃寺寸前だった寺を復興させることに力を注ぎました。地域の人々とも親密に交流し、寺の繁栄に大きく貢献しました。叡知に富み、人徳も厚く、加えて豪放磊落(ごうほうらいらく)(注2)な人柄は多くの人々を引き付け、強い影響を与えました。山本玄峰の名声は全国に広まり、老師の導きを受けに政財界の大物たちが、馳せ参じています。中でも、終戦時の総理大臣鈴木貫太郎や吉田茂、池田勇人両総理大臣など、日本の政治の中枢を担う人たちに対し、歯に衣着せぬ意見と助言とで、老師は時代の転換期に大きな役割を果たしました。
 96歳で入寂した老師は、その一生を禅道の興隆に捧げ、後に「今白隠」、「最後の禅僧」と言われるほどの高僧となりました。
アクセス
編集後
JR東海道本線三島駅から車で15分 伊豆縦貫道・三島加茂インターより車で5分 
twitter
facebook
instagram
LINE
駐車場
編集後
あります
御朱印
編集後
true
トイレ
参拝所要時間
参拝料
山号
編集後
円通山
院号
創立
編集後
宝暦10年(1760年)
創始者/開山・開基
編集後
白隠慧鶴 禅師
本殿/本堂の建築様式
巡礼
編集後
伊豆88ヶ所霊場 21番札所
行事
編集後
毎年11月23日は観楓祭
文化財
編集後
寺宝である紙本著色白隠自画像は明和3年(1767)に白隠83歳の時自ら描いたもので数ある作品の中でも傑作の1つに数えられ静岡県指定文化財に指定されています。
堂宇に施された鏝絵は漆喰鏝絵の名工として名を馳せた入江長八(伊豆長八)が64歳の時、龍澤寺で坐禅修行のため参籠した時製作したもので「不動明王」、「二童子像」、「天孫降臨図」、「龍」、「星定老師像」など約20点が三島市指定文化財に指定されています。
ご神体
御朱印の説明
YouTube