いわみのくにいちのみや もののべじんじゃ
石見国一宮 物部神社
公式島根県 大田市駅
08:30〜17:00
熊野大社の次は、島根県大田市にある石見國一宮の物部神社に参拝に行って来ました。
出雲大社から車で国道9号線と山陰道を走り1時間位の場所にあります。
この時期なので、お宮参りや七五三で賑わっていました。
お参りをして、境内を散策してから、出雲大社に向かいました。
鳥居
狛犬
狛犬
鶴
鶴
富金石
勾玉が掘られています。
本殿
菅原神社由緒書き
菅原神社
柿本神社由緒書き
柿本神社
淡島神社
淡島神社
一瓶社
一瓶社
物部神社(もののべ~)は、島根県大田市にある神社。式内社で、石見国一之宮。旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。主祭神は宇摩志麻遅命(うましまじ)、相殿神(右座)は饒速日命(にぎはやひ)、布都霊神(ふつのみたま)、相殿神(左座)は天御中主大神、天照皇大神。宮中で開催される鎮魂祭を行うことで、石上神宮、彌彦神社とともに知られる。祭神が鶴に乗って石見国に降臨したと伝わるため神紋は「日負鶴(ひおいづる)」。
社伝によると、物部氏の祖神であり饒速日命の御子である宇摩志麻遅命は、神武天皇の大和平定を助けた後、一族を率いて尾張・美濃・越国を平定し、その後に石見国で歿した。当社は、継体天皇8年(513年)に勅命により、宇摩志麻遅命が葬られた八百山の南麓に社殿が創建されたことに始まる。
『日本紀略』によると平安時代の869年に神階昇叙の記載があり、以後941年まで複数回、神階昇叙の記載がある。また927年に編纂された『延喜式神名帳』には「石見国 安濃郡 物部神社 小」と記載されている。その後、岩見国一之宮として、歴代領主の崇敬を受けた。室町時代後期の1527年に石見銀山が発見されると争奪戦が激しくなり、兵火で社殿を三度焼失するも、大内氏、毛利氏などが当地を支配し、当社に戦勝祈願を行った記録がある。現在の社殿は江戸時代中期の1753年再建、1856年改修の春日造で、全国一の規模を誇る。
当社は、JR山陰本線・大田市駅の南方5kmの緩やかな丘陵地帯にある。日本海側から南に伸びる国道375号線からほんの少し入った場所にあって、市街地からのアクセスは良い。八百山を背にした境内は平坦かつ横長で、樹木が少ないこともあり広々として見通しが良い。サイズとしては、旧国幣小社ではあるが、やや小さめか。
今回は、延喜式内社、岩見国一之宮、旧国幣小社、別表神社であることから参拝することに。参拝時は週末午前中早めの時間で、自分たち以外にも地元風、観光客風の参拝者が何人か参拝に訪れていた。
境内南端入口の<社号標>。<鳥居>は、南向きではなくなぜか南西向き。
大きな<木製鳥居>。社殿までまっすぐに表参道が伸びる。
<拝殿>遠景。参道両側の<狛犬>は高い台座に乗っている。
<狛犬>に近づいてみると、その奥に当社独特の<狛鶴>が立っている。主祭神である宇摩志麻遅命(うましまじ)が当地に鶴に乗って降臨した由緒による。
右側にも<狛犬>と<狛鶴>。
参道右側にある<手水舎>。
この大きな手水石は<富金石(ふきんせき)>と呼ばれ、砂金を含んだ珍しい石とのこと。
<拝殿>全景。社殿(本殿)は江戸時代末期の1856年に改修されている。島根県内では出雲大社に次ぐ大きさで、春日造では全国一の規模であるとのこと。
<拝殿>正面。社名を彫り無彩色の<扁額>が掛かる。神社幕には社紋の<日負鶴(ひおいづる)>が描かれている。
拝殿左隣の<神札所>。御朱印はこちら。
ここから社殿の左側(西側)を見て廻る。まず、神札所の裏にある<勝石>。
勝石の左側を抜け奥に進み、一段高いところ、本殿の左側にある<西五社>。
西五社の前から見た本社<本殿>。春日造では日本一というだけあって、かなり大きく重厚感がある。
枝の間から<亀>の彫刻が見える。
西五社の左手にある<稲荷社>。
一段高いところから下りて、勝石の左手にある<菅原神社>。左側には絵馬掛け。
菅原神社の左側にある<柿本神社>。石見の句を残し、石見で没した柿本人麻呂を祀っている。
柿本神社の左側にある<淡島社>。
境内東端にある<八重山神社>。
上の境内社群の南側にある<御神馬>。「パーソロン号」というらしい。後ろは<納札所>。
納札所の後ろにある<恵比寿神社>。
御神馬の後ろの巨木は御神木で、<夜なき椨(たぶ)>と呼ばれている。その空洞の中にある<聖天さん>。
境内南西側にある<岩見尊徳岩谷九十老翁頌徳碑>。
境内南西端にある石碑。
<拝殿>前を通って、ここから社殿の右側(東側)を見て廻る。
手前が<祓戸>、奥が<禊石>。ここにも<狛鶴>がいる。
一段高いところ、本殿の右側にある<東五社>。
東五社の前から見た本社<本殿>。
東五社の右隣にある<須賀見神社・乙見神社>。
須賀見神社・乙見神社の右側にある<後神社>。拝殿と本殿がある。
<後神社>の正面。古巨木に囲まれている。
後神社の右隣にある<一瓶社>。
写真右側は<御神井>。
境内南東側にある巨木。朝日に映えるシルエットが美しかったのでパチリ。
境内南端にある<社務所>。
最後に<狛犬>と<狛鶴>と<拝殿>。そんなに広くはないが、なかなか綺麗で見応えのある神社。(^▽^)/
物部神社
石見国一宮 祭神は宇摩志麻遲命
宇摩志麻遲命は天香具山命と共に、美濃、越を平定し、石見に入り死去したと伝えられ、社殿背後の八百山の古墳は神墓と伝えられています。
1718年社殿は焼失し、寺社奉行大岡越前守忠助が、幕命を以て近隣7か国に寄付を募り、1752年造営完成しました。
25年位前は、広島から島根にしょっちゅう行っていましたから、何度も御参りしました。
休日には裏山の宇摩志麻遲命の神墓とされる処まで広島から参りました。
40年前は物部神社前を自転車で通過しました。
以下は私の勝手な想像ですが
宇摩志麻遲命はシャーマン体質であったかもしれません。
神武東征後は、神に仕える祭主であったことを受けて、天皇の為に十種の神宝を用いて鎮魂の法を奉斎していたかもしれません。
それ故に軟禁状態であったかもしりません。
亡くなった為、宇摩志麻遲命の縁者が石見に祀ったのかもしれません。
鳥は魂を運ぶことから、宇摩志麻遲の魂が鶴に乗って石見に舞い降りたのだと、感じたのだと思います。
物部神社の神紋は日負鶴であり、丹波国多紀郡波々伯部は対鶴の紋と縁があるかもしれません。
十種神宝は催眠の法具かもしれません。又は、霊を降ろす神聖な場の必要条件かもしれません。
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