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2025年08月22日(金) 01時56分 bysoo_cyan
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父 天智天皇が崩御すると継承者・大友皇子に対し、叔父・大海人皇子おおあまのおうじが挙兵。古代史上最大の争乱・壬申の乱(672年)が勃発します。 激戦の末、瀬田橋の戦いで大友皇子(近江朝廷軍)は敗北。山前やまさきの地で自害したといわれています。享年25歳。 近江朝廷が滅んだのち、都は再び飛鳥に移り、大海人皇子が天武天皇として即位します。 天武天皇の勅命により編纂された『日本書紀』に大友皇子が「天皇」として記されることはありませんでした。 当時、動乱の中で大友皇子が正式に即位していたのかは定かではありませんが、その後も宮内庁が定める「皇統譜」には入っていませんでした。 そんな大友皇子に『第39代 弘文天皇』の諡号が贈られたのは明治3年(1870)。天皇として認めたことにより、天皇陵を治定してお祀りする必要が不可欠となった明治政府は、数ある大友皇子ゆかりの伝承地から、明治10年(1877)長等山麓にある「亀丘古墳」を弘文天皇陵と定めました。
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明治10年(1877)
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明治政府
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