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2025年08月17日(日) 09時45分 bysoo_cyan
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関寺(せきでら)
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関寺霊蹟
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史料上、関寺の初見は、天禄元年(970)に源為憲が著した「口遊」に日本三大仏として奈良東大寺・河内智識寺の毘盧遮那仏そして関寺の弥勒仏が記載されています。この関寺の弥勒物仏は、金色五丈もある大仏であったとしていますが「扶桑略記」によれば、天延4年(976)の大地震により大規模な被害を受け関寺の諸堂宇も倒壊し、五丈の弥勒仏は腰から上が破損したと伝えています。 長安寺蔵「関寺縁起」によれば、長和年間(1012~1017)に恵心僧都源信が倒壊したままの関寺を嘆き悲しみその復興を発願し、その事業を弟子の延鏡が遂行することになったと記されています。 この関寺再興の際には、資材運搬のために清水寺から使わされたという一頭の牛がいました。その牛は関寺檀越などの霊夢に迦葉仏の化身であるという夢告があったというのです。この夢告の噂はすぐに巷に広まり、万寿2年(1025)5月16日には、その霊牛と結縁すべく藤原道長と妻・倫子、藤原頼道、藤原教通などが次々と参詣しその数、数万に及んだと「関寺縁起」「左経記」などに記されています。5月30日、その牛は完成した御堂の周りを三巡りした後、6月2日に入滅し、その亡骸を関寺の後ろの山に埋葬したというのです。その牛を埋葬した場所に藤原頼道が建立したものが現在の牛塔であると伝承されています。 また、関寺と時宗との関係は、弘安6年(1284)に時宗宗祖一遍上人が入洛に際しこの関寺に逗留しています。このことについて国宝「一遍聖絵」第7に再建中の関寺堂舎の様子が描かれており、関寺にある池(關清水)の中洲に踊り屋を設け、一遍上人や時衆が七日間の踊り念仏を行っています。 さて、松月山長安寺は、元亀年間、関寺の一隅に太通庵主声阿弥陀仏によって開山されたと考えられています。その頃関寺には三昧、芸能に関わる聖が多く存在していたようです。そのため長安寺もその関りから創建されたのではないでしょうか。中世には大津市内にあった金塚道場荘厳寺(廃寺)の末寺でしたが、近世に入り、荘厳寺の衰退とともに豊臣氏によって京五条坂に創建された吉水道場法国寺(創建時は豊國寺)の末寺となりました。また、東海道の宿場町大津宿の関係もあり、人々の往来も多く酒肴に席としても利用されていました。その賑わいは「東海道名所図絵」にも描かれています。 近世末頃には、境内から湧き出る豊富な水を市街地に供給する長安寺水道を有するなど栄えていました。 栄枯盛衰、時代の変遷の影響を受けながらもその法灯を今に伝えています。 現在の境内からは大津市内が一望できるとともに、織田信長ゆかりの百体地蔵、西国三十三所観音霊場、宗祖一遍上人供養塔、超一房供養塔、長安寺滝跡や関寺堂塔の礎石などがあり、関寺の面影を今に伝えています。
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境内自由
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松月山
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元亀年間(1570~1573)
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大通庵主声阿弥陀仏
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重要文化財 長安寺宝塔一基(関寺の牛塔)
