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2025年08月16日(土) 21時02分 bysoo_cyan

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あんようじ
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ご由緒
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貞観3年(861) 智證大師円珍の開基と伝え、初めは天台宗寺門派に属した。三井寺山内南別所と呼ばれ、円満院宮が代々住職を兼務された。境内に観音堂があり「立聞観音」と呼ばれる聖観音が祀られています。かつてはこの聖観音が安養寺の本尊であった。立聞観音」について『近江輿地志略』は「伝て云、古昔蝉丸相坂山にて、琵琶を弾ず。観音夜毎に立聞きし給ふ。故に名づくといへり」と記しています。
織田信長が比叡山焼き討ちを行った時、安養寺の本堂、観音堂が焼失。比叡山の復興の際、伊達政宗公が復興奉行を命じられ、「立聞観音」が仮堂に安置されているのを悲しみ、御堂を建てて自らの雅号「図南」を付記した「立聞安養寺」の額を掲げた。現在もその扁額を見ることができる。
また、境内には「蓮如上人名号石」があり、蓮如上人は近江・堅田を布教の中心にしていたため、堅田はもともと比叡山(山門)領であり、山門と対立。寛正6年(1465)正月、山門の衆徒が山科にあった本願寺を急襲し破壊。蓮如上人は難を逃れますがこの地に逃げのびてきたとき、追手の山伏に遂に見つけられ長刀で斬りつけられたそうです。「折り節夜半のことと云い身を隠し玉う所もなければ、誠に危かりしに、さいわい当寺門前の建石(たていし)を見付け石の後に身をかわし玉えば不思議なるかな、右より切ればその石右に傾き、左より打ちかくれば石また左になびきて上人をたすけ奉る故、御足には少しの疵をうちたまえども御命は恙(つつが)なし、悪僧力を尽くせども本意を遂げずして終(つい)に下間(しもつま)のために討たれたり」と名号石略縁起に記されている。蓮如が文明12年、山科に本願寺を再興した後に、当時のことを顧みて、「悪僧の為にうたるべきを此の石に助けられ命を全うせし我が身代わりの石なればとて、無礙光如来の五字の名号を記したまえり」とつたえられている。
その縁もあってか明治5年(1872)に浄土真宗本願寺派に改宗。本尊は阿弥陀如来坐像(重文)。寺伝によれば行基作。平安後期の特徴をみせ天台浄土教の影響下につくられたと考えられており、もとは関寺にあったもののではないかとも伝えられている。
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ご祭神/ご本尊
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阿弥陀如来
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参拝時間
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拝観は予約制
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参拝所要時間
参拝料
山号
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逢坂山
院号
創立
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貞観3年(861)
創始者/開山・開基
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智證大師円珍
本殿/本堂の建築様式
巡礼
行事
文化財
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国重要文化財
・阿弥陀如来坐像
ご神体
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