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2026年05月08日(金) 10時14分 byくし
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源昌院は「分福茶釜」で有名な群馬県館林市の茂林寺の孫寺で、禅宗寺院としては珍しく地蔵菩薩を本尊としています。 「新編武蔵風土記稿」によると、開基は羽生城主・木戸忠朝の家臣・鷺坂軍蔵(不得道可)とされ、開山として羽生市藤井上組の源長寺から 徳岩正道大和尚を招き、慶長十年(1605) に創建されました。 戦国時代、羽生市役所の北方付近には、羽生城という蓮池に浮かぶ平城があり、木戸忠朝が城主を努めていました。忠朝は、関東管領・上杉謙信の忠臣で、終始一貫して謙信に仕えた武蔵國で 唯一の武将として知られます。 忠朝の最期については諸説のこされていますが、その一つに、天正二年(1571)の羽生城最後の戦いの際に、稲子村で自刃したという伝説があります。忠朝は戒名を「久昌院源心長公居士」といい、これは当院の名前の由来となっています。 (由緒書より)
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源昌院は「分福茶釜」で有名な群馬県館林市の茂林寺の孫寺で、禅宗寺院としては珍しく地蔵菩薩を本尊としています。 「新編武蔵風土記稿」によると、開基は羽生城主・木戸忠朝の家臣・鷺坂軍蔵(不得道可)とされ、開山として羽生市藤井上組の源長寺から 徳岩正道大和尚を招き、慶長十年(1605) に創建されました。 戦国時代、羽生市役所の北方付近には、羽生城という蓮池に浮かぶ平城があり、木戸忠朝が城主を努めていました。忠朝は、関東管領・上杉謙信の忠臣で、終始一貫して謙信に仕えた武蔵國で 唯一の武将として知られます。 忠朝の最期については諸説のこされていますが、その一つに、天正二年(1571)の羽生城最後の戦いの際に、稲子村で自刃したという伝説があります。忠朝は戒名を「久昌院源心長公居士」といい、これは当院の名前の由来となっています。 (由緒書より) ―――――――――― 【分福・狸地蔵と茶釜石】 源昌院の建つ稲子村には、茂林寺(館林市)の狸がやって来て分福茶釜の蓋を忘れていったという昔話が伝えられています。 この故事にちなんで、茂林寺の孫寺である源昌院に「皆に福を分けあたえる狸地蔵尊」が奉安されました。 「分福」の言葉は、他者の幸福を願う心が自身の本当の幸福につながる、という教えを説いているともいわれています。 「幸せになりたかったら人を幸せにする。幸せの種をまいていく。それがいつか必ず自分に返ってくる」それが分福茶釜の教えです。 (由緒書より) ―――――――――― 【類話】 利根川の対岸、邑楽郡邑楽町狸塚の高源寺にも、犬に吠えられて狸の正体を見破られた守鶴和尚が、分福茶釜の蓋を落として茂林寺に逃げていったという昔話が伝わる。 源昌院は茂林寺の孫寺であるが、高源寺は茂林寺の末寺であった。
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地蔵菩薩(みちびき地蔵尊)
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《本尊》 地蔵菩薩(みちびき地蔵尊) 《諸尊》阿弥陀如来・分福狸地蔵尊・木霊地蔵・富徳地蔵尊・その他仏尊多数 《鎮守社》天神社?・祭神不明合社
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茂林寺からやってきた狸が分福茶釜の蓋を忘れていったという伝承が伝わる 御朱印は散華印という木の葉形の書き置き
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慶長十年(1605年)
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(開基)鷺坂軍蔵 (開山)徳岩正道大和尚