しみずはちまんぐう
清水八幡宮の編集履歴
ご由緒
清水八幡には源義高(清水冠者義高)がまつられています。
義高は源(木曽)義仲の嫡男ですが、源頼朝に人質として鎌倉に送られ、頼朝とその妻北条政子のとの間に生まれた娘、大姫の婿となっていました。義仲が頼朝に討ち果たされたのを知った義高は、自分にふるかかる難をのがれるため従者六人ばかりと共に祖父義賢の地(大蔵館)や義仲を助けた畠山重能の地(菅谷館)がある現在の嵐山町を目指して逃亡しましたが、当地入間河原で頼朝の追手に討ち果たされました。このくだりは「吾妻鏡」にのっていますが、それによると、政子と大姫は義高の討死を嘆き悲しみ、直接、義高を刃にかけた藤内光澄を打ち首にし、義高の霊をまつるため、その討ち果たした地、入間河原に社を建てたということです。それが清水八幡宮ですが、度重なる暴風雨や洪水で当時の社は跡形もなくなり、場所も現在では、はっきりせず、このあたりであろうと思われてます。
編集前:清水八幡には源義高(清水冠者義高)がまつられています。
義高は源(木曽)義仲の嫡男ですが、源頼朝に人質として鎌倉に送られ、頼朝とその妻北条政子のとの間に生まれた娘、大姫の婿となっていました。義仲が頼朝に討ち果たされたのを知った義高は、自分にふるかかる難をのがれるため従者六人ばかりと共に祖父義賢の地(大蔵館)や義仲を助けた畠山重能の地(菅谷館)がある現在の嵐山町を目指して逃亡しましたが、当地入間河原で頼朝の追手に討ち果たされました。このくだりは「吾妻鏡」にのっていますが、それによると、政子と大姫は義高の討死を嘆き悲しみ、直接、義高を刃にかけた藤内光澄を打ち首にし、義高の霊をまつるため、その討ち果たした地、入間河原に社を建てたということです。それが清水八幡宮ですが、度重なる暴風雨や洪水で当時の社は跡形もなくなり、場所も現在では、はっきりせず、このあたりであろうと思われてます。