からつじんじゃ
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唐津神社ではいただけません
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唐津神社のお参りの記録(1回目)
投稿日:2024年11月13日(水)
参拝:2024年10月吉日
その由緒を神功皇后に見る唐津神社、唐津城かの祈願所と定められた神社で、唐津からつくんちで広く知られています。
神功皇后は、新羅征討に向かった折、渺茫と広がる海に新羅への航路を求めますが、舟師(水軍)はその路みちが分かりませんでした。神功皇后は、住吉三神に『神若吾をして新羅を征せいせしめんと欲ば、一條の舟路を示せ、吾依て以って師を進めん』と祈願します。すると、たちまちのうちに海上に光が輝やいて航路を示し、皇軍を導きました。三韓征伐を成し遂とげた神功皇后は、凱旋の後、住吉大神の御神徳に感謝して松浦の海浜に宝鏡を縣けて三神を祀つったのが創始とされています。
数百年を経て、社殿も消滅せんとしていた天平勝宝て7年(755)地頭の神田宗次公が、神夢を見たことから海浜に赴と、漂着してきた宝鏡入りの筺を得ます。これは神功皇后の捧た鏡に間違いないと奏聞しに、叡感を得て、9月29日の勅にて「唐津大明神か」の神号を賜たとされています。神田氏を始め里人の崇敬益々加わり、文治2年(1186)には神田宗次こうだむねつぐの後裔こうえいを称する神田広こうだひろしが、社殿しゃでんを造立ぞうりゅうして神田しんでんを寄進きしん。家祖かその神田宗次公こうだむねつぐこうの神霊しんれいを合祀ごうしして二ノ宮にのみやとしました。
文禄ぶんろく4年(1595)寺沢広高てらざわひろたかが唐津藩主からつはんしゅとなり、慶長けいちょう7年(1602)から本格的に唐津城からつじょうを築城ちくじょうします。その唐津城からつじょうの築城ちくじょうに際して、当社を唐津城からつじょうの守護神しゅごしんとして崇敬すうけいし、慶長けいちょう7年(1602)、または慶長けいちょう11年(1606)に、現在地に社殿しゃでんを新築しました。そして領内りょうないの守護神しゅごしん、唐津藩主からつはんしゅの祈願所きがんしょと定められ、城下の火災鎮護ちんごとして水波能女神みずはのめのかみを相殿あいどのとして勧請かんじょうしました。その後、代々の各藩主はんしゅ(大久保おおくぼ・松平まつだいら・土井どい・水野みずの・小笠原おがさわら)も、いずれも祈願所きがんしょと定めて領内りょうないの総社そうじゃとして崇敬すうけいしました。明治6年(1873)郷者ごうしゃに列れっして「唐津神社からつじんじゃ」へ改称。昭和17年(1942)県社けんしゃに昇格しょうかくし、境内けいだいを拡張して社殿しゃでんが総改築されました。
御祭神ごさいじんの住吉三神すみよしさんじんは、伊邪那岐大神いざなぎのおおかみが禊祓みそぎはらえをしたときに生れた神であることから、厄災清祓やくさいきよはらえの御神徳ごしんとくがあるとされ、海を司つかさどる神として海上安全の崇敬すうけいを集めています。水波能女神みずはのめのかみは火伏ひぶせの御神徳ごしんとくがあり、神田宗次公こうだむねつぐこうの神霊しんれいは唐津からつの産土大神うぶすなのおおかみ、総氏神そううじがみとして尊崇そんすうされています。
神功皇后は、新羅征討に向かった折、渺茫と広がる海に新羅への航路を求めますが、舟師(水軍)はその路みちが分かりませんでした。神功皇后は、住吉三神に『神若吾をして新羅を征せいせしめんと欲ば、一條の舟路を示せ、吾依て以って師を進めん』と祈願します。すると、たちまちのうちに海上に光が輝やいて航路を示し、皇軍を導きました。三韓征伐を成し遂とげた神功皇后は、凱旋の後、住吉大神の御神徳に感謝して松浦の海浜に宝鏡を縣けて三神を祀つったのが創始とされています。
数百年を経て、社殿も消滅せんとしていた天平勝宝て7年(755)地頭の神田宗次公が、神夢を見たことから海浜に赴と、漂着してきた宝鏡入りの筺を得ます。これは神功皇后の捧た鏡に間違いないと奏聞しに、叡感を得て、9月29日の勅にて「唐津大明神か」の神号を賜たとされています。神田氏を始め里人の崇敬益々加わり、文治2年(1186)には神田宗次こうだむねつぐの後裔こうえいを称する神田広こうだひろしが、社殿しゃでんを造立ぞうりゅうして神田しんでんを寄進きしん。家祖かその神田宗次公こうだむねつぐこうの神霊しんれいを合祀ごうしして二ノ宮にのみやとしました。
文禄ぶんろく4年(1595)寺沢広高てらざわひろたかが唐津藩主からつはんしゅとなり、慶長けいちょう7年(1602)から本格的に唐津城からつじょうを築城ちくじょうします。その唐津城からつじょうの築城ちくじょうに際して、当社を唐津城からつじょうの守護神しゅごしんとして崇敬すうけいし、慶長けいちょう7年(1602)、または慶長けいちょう11年(1606)に、現在地に社殿しゃでんを新築しました。そして領内りょうないの守護神しゅごしん、唐津藩主からつはんしゅの祈願所きがんしょと定められ、城下の火災鎮護ちんごとして水波能女神みずはのめのかみを相殿あいどのとして勧請かんじょうしました。その後、代々の各藩主はんしゅ(大久保おおくぼ・松平まつだいら・土井どい・水野みずの・小笠原おがさわら)も、いずれも祈願所きがんしょと定めて領内りょうないの総社そうじゃとして崇敬すうけいしました。明治6年(1873)郷者ごうしゃに列れっして「唐津神社からつじんじゃ」へ改称。昭和17年(1942)県社けんしゃに昇格しょうかくし、境内けいだいを拡張して社殿しゃでんが総改築されました。
御祭神ごさいじんの住吉三神すみよしさんじんは、伊邪那岐大神いざなぎのおおかみが禊祓みそぎはらえをしたときに生れた神であることから、厄災清祓やくさいきよはらえの御神徳ごしんとくがあるとされ、海を司つかさどる神として海上安全の崇敬すうけいを集めています。水波能女神みずはのめのかみは火伏ひぶせの御神徳ごしんとくがあり、神田宗次公こうだむねつぐこうの神霊しんれいは唐津からつの産土大神うぶすなのおおかみ、総氏神そううじがみとして尊崇そんすうされています。
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