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2026年01月17日(土) 00時21分 by神祇伯
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能勢町森上の地に鎮座し「延喜式神名帳」能勢郡の条に岐尼神社とみえる式内社である。かつて森上のあたりは枳根荘の一部であったことから、「枳根・枳禰・杵宮」あるいは「杵大明神」とも呼ばれていた。祭神は「天孫瓊々杵尊」、中臣氏の祖神「天児屋根命」、大名草彦命の子「枳根命」、そして源満仲である。 瓊々杵尊といえば天孫降臨神話に登場する神で、岐尼神社にも天孫降臨の説話が伝来している。すなわち、岐尼神が南の小丘に降臨したもうたとき、土民は臼の上に杵を渡し荒菰を敷いて迎えたという。この「杵」、天下った「杵尊」のひびきから社名「きね」が起こったと考えられている。また、天下った丘はいまも「天神山」と呼ばれている。 社伝によれば、延暦元年(782)の創祀以来、代々朝廷の勅願所であり、また将軍家代々の御祈願所であったという。さらに祭神の一柱である「源満仲」は多田の地の開発領主であり子孫は清和源氏としておおいに栄えた。多田には満仲の家臣・一族らが入って開発治世につとめ、多田満仲が祭神として加えられたようだ。 森上のあたりは丹波と摂津の境目にあたり、戦国時代には清和源氏の流れをくむ小武士団西郷衆が割拠していた。そして、岐尼神社後方の山上に築かれた森上城には能勢氏の一族が入り、南方の摂津山下城主に拠る塩川氏、丹波の波多野氏らと対峙していた。天文14年(1545)波多野氏の攻撃で月峯寺が焼き討ちされ、つづいて天文18年には塩川伯耆守の侵攻にさらされた。塩川氏との戦いは「岐尼の宮合戦」と呼ばれ、森上城主能勢小重郎を大将とする西郷衆の勝利に終わった。討たれた塩川衆を葬ったあとが「多田塚」としていまに伝わっている。 その後、天正7年(1579)織田信澄の乱入によって、社殿は兵火に罹って焼亡、伝来していた古文書も失われた。関ヶ原の合戦を経て戦乱も落ち着いた慶長10年(1605)、社殿が再建され、さらに江戸時代の享保12年(1727)にも修復の手が入って現在に至っている。 [境内掲示板より]
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《主》瓊瓊杵尊,天児屋根命,多田満仲,《配》天照大神,伊邪那岐神,伊邪那美神,豊受比売神,速素盞嗚尊,中筒男神,綿津見神,大山祇神,宇賀御魂神,火産霊神,保食神,大歳神,大国主命,猿田彦神,金山彦神,応神天皇,小童命,八衢比売神,櫛御気野命,菅原道真,源満政
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《主祭神》 瓊瓊杵尊 天児屋根命 枳根命 多田満仲 《配祀神》 天照大神 伊邪那岐神 伊邪那美神 豊受比売神 速素盞嗚尊 中筒男神 綿津見神 大山祇神 宇賀御魂神 火産霊神 保食神 大歳神 大国主命 猿田彦神 金山彦神 応神天皇 小童命 八衢比売神 櫛御気野命 菅原道真 源満政
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参拝自由
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境内に駐車可能
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true
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なし
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約10分
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なし
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延暦元年(782年)
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不詳
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三間社流造
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式内小社、村社
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不詳