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2025年03月05日(水) 01時54分 bysoo_cyan

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名前
編集前
廣教寺
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廣教寺(広教寺)
ふりがな
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こうきょうじ
ご由緒
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往昔、当寺(廣教寺)は摂津国東成玉造石山城の南、高津に建立された天台宗の寺院として、寺号を「願慶寺」と云いました。
しかし、戦国の時代を経て願慶寺は荒廃の一途を辿り、慶長十一年(1606年)四月、本願寺第三世覚如上人の玄孫 善宗はこれを嘆き、自らが入寺し願慶寺第九代としてその再興に尽くされました。
 その後、寛永二年(1625年)徳川家光の頃、高津の寺領は幕府に収められましたが、その代地として海浜の荒地1万7400余坪が寄与され、当寺第十一代善融はこの地を開拓して一部を新寺領(薩摩堀北之町、今の大阪市西区立売堀四丁目付近)として、他を町家に分け与え薩摩堀寺内町を形成しました。かつて当寺を「薩摩堀御堂」、またその地域を「願慶寺堀」などと旧称したのもここに由来するものです。
 さらに、寛永十一年(1634年)十一月の院家御免に、朝廷より「祝松殿」の称号を賜る際、これまでの願慶寺を改め、山号を「祝松山」に、寺号を「廣教寺」としました。しかし、「願慶」の二文字は以来当寺の本堂を「願慶堂」とよび、その扁額を御堂口に掲げることで今日まで受け継がれています。
 江戸期の廣教寺は、本堂・庫裡・玄関・廊下・客室・茶所・経蔵・仏飯所ほか鐘楼堂・太鼓楼・薬医門・四足門などを備え、檣壁を繞らす堂々たる寺観をほこっていました。その様は、『摂津名所図絵』(大坂巻四下)にも「此寺ノ書院ノ庭中眞妙ニシテ、山水ヲ縮メ、風景著シク、古梅古楊或ヒハ大樹ノ櫻多ク、數寄屋ノ額ハ、摩尼室ト書シテ無學ノ筆ナリ。四方市中ナレドモ芳樹茂リテ恰モ山林ノ如シ。」などと記されるところです。
 しかし、昭和二〇年三月十四日未明の大阪大空襲の戦火に、幾多の寺宝と共に伽藍施設は悉く烏有に帰し、戦後の混乱期には寺領僅か130余坪へと狭小し、寺院存亡の危機へと立たされました。
 その荒廃を嘆かれた本願寺第二十三世勝如上人は、昭和二十八年九月、播州亀山は本徳寺/昭道連枝の二男照英を廣教寺住職として、その法灯を継承するよう懇願されました。廣教寺第二〇代住職として入寺した照英は、昭和三十六年十月、大阪市区画整理事業を機に寺域を現在の豊中の地に移し、廣教寺再興に尽くしました。
 その後、寺領は1000余坪にまで拡大され、また門信徒の懇意により本堂(願慶堂/扁額は本徳寺昭道連枝筆)も近代建造物として昭和五十一年に建立されました。寺内墓地も整備され、平成元年には墓地内に納骨所「無量寿堂」も新たに設けら、平成十三年度には祖師堂(御影堂・多目的ホール兼)も建立されました。
 現在、戦火をくぐり抜け当寺に伝わる寺宝には、本尊「阿弥陀如来像」(伝、聖徳太子作/青蓮院尊純法親王御念持仏)、「見眞大師座像」(伝、親鸞作)、「六字尊号」(蓮如上人御真筆)などがあります。

ご祭神/ご本尊
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阿弥陀如来
Introduction
山号
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祝松山