うりわりてんじんじゃ
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瓜破天神社の編集履歴
2021年01月17日 19時29分
ご由緒
瓜破の歴史を記録し唯一現存する船戸録によれば、孝徳天皇の大化年中当地に居住された高僧、船氏道昭が、五月晦日三密の教法觀念の折、庵室に光る天神の尊像が現れたので、西瓜を割って霊前に供えた。道明は朝廷に上申したところ方八丁の宮地を賜わり、この霊像を祭祀して当所の氏神と崇め奉り、西の宮又は方八丁の宮と称したのが当社の起源であると記されている。
当社の北部に牛頭天王を祀る社(祭神・素戔嗚尊)があって北の宮と言われていた。慶長年代に至り公命によって北の宮を西の宮へ合祀した。寛永年間に耕作の都合で集団移住した西川村(旧西瓜破)を形成し、そこに自我身として祀った天満宮(祭神・菅原道真)、さらに東北部の東の宮と称した小松大明神(祭神・平維盛)があった。この社は、寿永年間平重盛に大恩を受けた源氏の武将湯浅七郎兵衛宗光が京都守護職として赴く際、当地にて重盛の嫡子、維盛が熊野浦にて入水の由を聞き及び追悼慰霊を営み神領五十歩を寄進して宮居を建てたのが起源とされている。その後天和年間当地本郷地、村民の熱意によって現今の地に勧請され氏神(小松神社)となる。
以上の各社、社領地は、特に永正より大永年間に亘る足利と細川の摂津河内の戦乱に被害を受けたが、村民は維持、興隆に努めてきた。明治四十三年には公命により各社は、当天神社に合祀され、昭和時代を迎え村民の希望によって、再び各社に分霊鎮座された。
本殿/本堂の建築様式
流造桧皮葺
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