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2025年10月01日(水) 22時36分 bysoo_cyan

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名前
編集前
宝圓寺
編集後
寶圓寺
ふりがな
編集後
ほうえんじ
通称
編集後
宝円寺
ご由緒
編集後
村にまだ浄土真宗がなかった頃、当時久宝寺にあった慈願寺の法円に帰依する門徒団によって起された西喜連村惣道場が寶圓寺の前身である。寺号の「寶圓寺」も法円の音から採ったと思われる。
 下って大坂本願寺證如上人の「天文日記」天文十二年(1543)に喜連法春が登場する。法春も法円直系の人物である。法春によって寶圓寺の実質的基盤が村の築かれていった。
 この後大坂本願寺派元亀元年(1570)織田信長との石山合戦を迎え、天正八年(1580)この終結をめぐって家臣団が顕如上人方の宥和派と嫡男教如方の抗戦派に分裂。関ケ原の戦後の慶長八年(1603)、真宗は東西に分派した。
 元和七年(1621)、西喜連村惣道場は東本願寺(大谷派)より本尊阿弥陀像木仏を下付され、いち早く寺院化する。寛永七年(1630)に当寺の真宗先進地越中石動(いするぎ)から正式な僧侶寛能を迎えて寶圓寺を名乗り、名実ともに寺院となった。そして江戸時代を通じ教如上人が創立した八尾別院(慶長十二年・1607)の組頭を勤めた。寛能は白川郷の古刹照蓮寺の出身で、山号の「中野山」は照蓮寺のあった「飛騨中野」に由来する。
 寛能着任後の寛永十六年(1639)には教如上人絵像、万治四年(1661)親鸞聖人御影、寛文九年(1669)太子・七高僧絵像を東本願寺から下付されている。教如上人絵像が親鸞聖人御影より早く、寶圓寺が生粋の教如派であることを物語っている。
 平成二十二年(2010)、二八〇年ぶりに本堂の解体修復を行い、併せて耐震工事を施した。この時大棟鬼瓦と小屋裏桔木から享保十五年(1730)の銘が出て、現在の本堂が宝永地震(宝永四年・1707)後の新築建立であることが判明した。また本堂基壇裾より石垣が発掘され、それ以前からの施設の上に現本堂が建てられていることも判った。なお現存する太鼓の胴裏銘から旧山門「太鼓楼」が宝永六年築造されたことが判った。平成七年(1995)の阪神大震災により被災し、翌年現山門が新築された。
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