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2026年04月18日(土) 08時24分 bysoo_cyan
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ごくらくじ
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野田御坊、野田城跡
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天文元年(1532年)京都の一向宗寺院山科の本願寺第16代證如上人の時、江洲観音寺の城主佐々木六角弾正定頼が、日蓮宗信者だったので、念仏宗門の本願寺の繁栄をねたみ、日蓮宗徒を集め、約3,000の軍兵を出して、不意に山科の本願寺へおし寄せた。そして八方より取囲み、本願寺に火をかけて、寺の中へ乱入した。本願寺の僧徒もよく防いだが、多勢の寄手に、さしもの本堂(蓮如上人の草創)も焼け落ちた。證如上人は近臣に守られて命がけで、大阪の石山本願寺へむかって落ちられた。そして深草の里から淀・枚方をへて三島江のへんに着かれた事を聞き知った野田福島の真宗(一向宗)の門徒600人余りは、直ちにお迎えにはせ参じ、舟で證如上人を野田御堂に迎え、定頼の軍兵を一人たりとも近づけぬと、身命をすてて上人を護った。その後上人は大阪石山御坊に入られた。上人は、天文2年(1533年)8月、要地として知られた、この野田福島を見聞しようと、僅かの家臣と共に来られた際、どうして佐々木の軍兵に知られたのか、今度こそはと生い茂る野田の芦の原っぱに伏兵を大勢しのばせて、今か今かと時の来るのを待ちかまえていた。上人は、それとは露知らず不意におどり出た荒武者たちに無理無態に攻め立てられ、どうすることも出来ず、もはやここが最期かと思われた。その時、野田村の百姓門徒、これは一大事とばかり、手に手に鋤・鍬・鎌などを持ち、群がる敵の中に突き進んで命がけで戦った。佐々木方も、その勢いにおされて、一度は退いたが、多勢に無勢、信仰に一命をささげてふるい戦った野田村の衆も力尽きて21人の門徒が討死した。しかし、死をもって防いだ門徒のおかげで、上人は、危難をまぬがれ、海路紀州へ逃れられたのである。 上人は舟の中で野田村の宗徒の討死のようすをくわしく聞かれ、深く心に感じられて冥目せられ、すぐさま一通の御書を書き、感激の気持ちを示された。 この宗門のために喜んで命を捧げた21人の霊に対し證如上人は厚く報謝の意をあらわされ、その夜御書を認めてこれを野田惣中にわたされた。天文2年(1533年)佐々木定頼と和談が成り、佐々木勢は引きあげていった。 翌天文3年(1534年)8月祖師上人真筆の十字名号を与えて、21人の忌法事を営ませられ、同年12月25日更に大巾の本尊を野田村惣中に付与せられたが、後教如上人の御代に至って一宇を建立せられたのがこの極楽寺である。 当寺は前記のように21人討死の由緒ある寺であるので、東本願寺では7月28日に、その討死した21人の子孫21人に御斉相判を命ぜられる例であったが、その後つごうで8月28日に変更せられた。相判にあずかる者を御頭講中と呼んで、討死者の子孫だけだったが、時代とともに、その子孫が明かでなくなってきたので、その後は、極楽寺および、南徳寺の門徒の中から毎年本山に上る例になった。寺としては、討死者21人の逮夜は8月8日、命日は9日であるからこの日に法要を営んできていたが、炎暑の候であるので、今は4月8日・9日の両日に法要を営むことになっている。
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清浄山