じゅんなてんのうちょくがんじ れいすいじ にしむろいん|真言宗大覚寺派|寳光山
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御朱印 | |||
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限定 | - | ||
御朱印帳 | - | ありません | |
駐車場 | 当山前にある駐車場に4台程停めることができます。 |
淳和天皇勅願寺 冷水寺 西室院について
当山は欽明天皇檜前の里清水谷邨丘皇宮跡にして、山号を寳光山、寺号を冷水寺といい、西室院はその院号であります。
冷水寺は大宝二年五月、行基菩薩の開基と伝えられています。弘法大師はこゝに留錫せられ、御弟子真然僧正に命じて寺門の建立に努力せられました。淳和天皇天長二年八二五勅命により、久米益田池の御築造のみぎり偶々御足を傷められ、困惑しておられましたところ、この地に湧出する霊水を発見せられ、御足を洗い給えば足痛直ちに快癒せられ、恙なく益田池の築造を成就せられたと伝えられています。
当院本尊不動明王は弘法大師御留錫の御時一夜の御作と傳えられ一切の悪魔を降伏する身代不動明であります
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名称 | 淳和天皇勅願寺 冷水寺 西室院 |
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読み方 | じゅんなてんのうちょくがんじ れいすいじ にしむろいん |
通称 | 西室院 |
参拝料 | なし |
トイレ | 寺務所横 |
御朱印 | あり |
限定御朱印 | なし |
御朱印帳 | なし |
電話番号 | 0744-52-4115 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
ホームページ | http://nishimuroin.sakura.ne.jp/ |
詳細情報
ご本尊 | 弘法大師建立不動明王立像
淳和天皇像 |
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山号 | 寳光山 |
院号 | 冷水寺西室院 |
宗旨・宗派 | 真言宗大覚寺派 |
ご由緒 | 冷水寺は隆盛に赴き、宝光院、華蔵院、松室院、吉祥院、正蓮院、常喜院、宝憧院、西室院等々が塔頭として建立せられるに至りました。 越智邦澄がその父戦死の後遁れ来って高取築城(六百三十数年前)まで育てられたのは、実にこの宝光山でありました。 それより越智氏との関係はいよいよ深く、後、常喜院がその手によって建立せられ菩提寺となり、霊鷲寺と改められました。かくて繁栄その極に達し、冷水寺千軒と呼ばれ、冷水寺金堂より東西南北千軒四方冷水寺の境内也と呼ばれるに至ったのであります。(越智系譜伝) しかし、栄枯盛衰は世の習いとて、冷水寺も次第に衰運を辿る。 現京都東山音羽の清水寺は、当山冷水寺金堂と南清水寺通常観音院金堂を同じに坂ノ上田村麻呂小島寺延鎮僧都に帰依し、延暦十三年七九四甲戌の五月、京東山音羽に清水寺移建すとあり。(壺阪寺、子嶋寺、冷水寺縁起に名記) 当山本殿は文政二年己卯の仁孝天皇二年春、焼失。庫裡は先々代輪翁僧正のとき、大和の変の際(約百年前)天誅組の使者那須信吾が高取藩月家老と折衝した俵屋陣屋の家を移建して今日に至って居ります。太平記に一三三一、元弘元年八月二十七日後醍醐天皇京嵯峨御所を出所、吉野へ安住の途上、笠置寺本堂皇居に定める時、同じく吉野に在住せる大塔宮護良親王冷水寺一山僧兵出堂、天皇護守の為、笠置へ出兵、木津川一帯で足利尊氏の大軍と激戦。笠置落ちて親王は河内赤坂の楠木氏へ逃れる。昭和五十二年二月十一日本殿再建に着工。九月一日完工、九月末護摩堂改体、檀信徒の総力を結集して再建に努力、意外にも旧護摩堂屋根板に欽明天皇檜前の里清水谷邨丘皇宮跡と名記あり。 元弘二年護良親王住板書を発見、護良親王は僧名(尊雲)元弘二年秋後醍醐天皇は尊氏一族の手により入京、これより七年後延元三年八月十六日大塔宮尊雲護良親王鎌倉へ軟禁殺害の事あり。 当山は天長二年淳和天皇より勅願の拝命あり。 当山は坂ノ上田村麻呂誕生寺也。 |
体験 | 祈祷御朱印除夜の鐘 |
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