御朱印・神社お寺の検索サイト

楽しみ方

編集詳細

2025年01月23日(木) 17時00分 byれん太郎

履歴一覧へ戻る
ご由緒
編集前
藤原鎌足夫人の鏡大王が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669年)山背国山階(現京都府京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)、山階寺は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。
和銅3年(710年)の平城遷都に際し、鎌足の子不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けた。この710年が実質的な興福寺の創建年といえる。中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られる。
その後も、天皇や皇后、また藤原家によって堂塔が建てられ整備が進められた。不比等が没した養老4年(720年)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営は国家の手で進められるようになった。
編集後
藤原鎌足夫人の鏡大王が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669年)山背国山階(現京都府京都市山科区)に創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)、山階寺は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。
和銅3年(710年)の平城遷都に際し、鎌足の子不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けた。この710年が実質的な興福寺の創建年といえる。中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られる。
その後も、天皇や皇后、また藤原家によって堂塔が建てられ整備が進められた。不比等が没した養老4年(720年)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営は国家の手で進められるようになった。
見所
編集前
<h3>世界的に有名な阿修羅立像があるお寺</h3>
<h3>南円堂は西国三十三カ所第九番札所</h3>
<h3>東金堂は西国四十九薬師霊場第4番札所</h3>
編集後
<h3>世界的に有名な阿修羅立像があるお寺</h3>
<h3>南円堂は西国三十三カ所第九番札所</h3>
<h3>東金堂は西国四十九薬師霊場第4番札所</h3>
アクセス
編集前
JR 奈良駅 市内循環バス「県庁前」下車すぐ
  近鉄 奈良駅 徒歩5分
編集後
JR 奈良駅 市内循環バス「県庁前」下車すぐ
  近鉄 奈良駅 徒歩5分
駐車場
編集後
有料🅿あり