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楽しみ方松倉重政祭祀の祠のお参りの記録(1回目)
投稿日:2025年11月06日(木) 22時42分07秒
参拝:2025年10月吉日
長崎旅行で島原城に行った時に見かけ寄らせていただきました。
島原城の初代藩主、松倉重政公と築城工事中に亡くなった人々を祀る祠です。
扁額は松平忠精公が奉納した物です。
松倉重政は、元和2年(1616)、大阪の陣での戦功で肥前国日野江4万3千石を与えられ入封しました。一国一城令に従って手狭な日野江城と原城を廃し、新たに島原城を築城します。築城工事は元和4年(1618)から始まり、寛永元年(1624)に完成、しかし石高以上に荘厳な城を築いたため、領民から過酷な搾取を行うとともに、幕府からの指示で徹底的なキリシタン弾圧を断行したことが、寛永14年(1637)の島原の乱の主因となりました。2代藩主の松倉勝家は乱の鎮圧後にその責を問われ、大名としては異例の斬首となり改易、代わって高力摂津守忠房が島原藩に入封しました。
島原城の初代藩主、松倉重政公と築城工事中に亡くなった人々を祀る祠です。
扁額は松平忠精公が奉納した物です。
松倉重政は、元和2年(1616)、大阪の陣での戦功で肥前国日野江4万3千石を与えられ入封しました。一国一城令に従って手狭な日野江城と原城を廃し、新たに島原城を築城します。築城工事は元和4年(1618)から始まり、寛永元年(1624)に完成、しかし石高以上に荘厳な城を築いたため、領民から過酷な搾取を行うとともに、幕府からの指示で徹底的なキリシタン弾圧を断行したことが、寛永14年(1637)の島原の乱の主因となりました。2代藩主の松倉勝家は乱の鎮圧後にその責を問われ、大名としては異例の斬首となり改易、代わって高力摂津守忠房が島原藩に入封しました。
すてき
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