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楽しみ方西山寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2026年04月18日(土) 20時33分56秒
参拝:2026年3月吉日
以酊庵址
天正8年(1580年)、対馬の戦国大名宗義調により景轍玄蘇が招かれ朝鮮との外交に当たり、文禄・慶長の役では豊臣秀吉の命で明との交渉を担当した。
その後、慶長2年(1597年)もしくは16年(1611年)に玄蘇が対馬天道茂(対馬市厳原町天道茂)の地に寺院を建立し、玄蘇の生まれた天文6年(1537年)の丁酉の年にちなんで以酊庵と名づけられた。享保17年(1732年)の大火で本堂を焼失したため、国分(対馬市厳原町国分)にあった西山寺を末寺の瑞泉院に移転させ、その跡に以酊庵を移した。
江戸幕府の衰退によって慶応2年(1866年)に江戸幕府から対馬藩に対して以酊庵輪番制の廃止が通告され、翌年1月に89世(通算126代目)玉澗守俊が東福寺に帰還、更に江戸幕府に代わった明治政府が対馬藩から対朝鮮外交権を剥奪したこともあり、無住となった以酊庵は明治元年(1868年)に廃寺となった。明治以後は西山寺が復帰することになり、玄蘇の遺品や以酊庵関係資料は同寺に伝来している。
天正8年(1580年)、対馬の戦国大名宗義調により景轍玄蘇が招かれ朝鮮との外交に当たり、文禄・慶長の役では豊臣秀吉の命で明との交渉を担当した。
その後、慶長2年(1597年)もしくは16年(1611年)に玄蘇が対馬天道茂(対馬市厳原町天道茂)の地に寺院を建立し、玄蘇の生まれた天文6年(1537年)の丁酉の年にちなんで以酊庵と名づけられた。享保17年(1732年)の大火で本堂を焼失したため、国分(対馬市厳原町国分)にあった西山寺を末寺の瑞泉院に移転させ、その跡に以酊庵を移した。
江戸幕府の衰退によって慶応2年(1866年)に江戸幕府から対馬藩に対して以酊庵輪番制の廃止が通告され、翌年1月に89世(通算126代目)玉澗守俊が東福寺に帰還、更に江戸幕府に代わった明治政府が対馬藩から対朝鮮外交権を剥奪したこともあり、無住となった以酊庵は明治元年(1868年)に廃寺となった。明治以後は西山寺が復帰することになり、玄蘇の遺品や以酊庵関係資料は同寺に伝来している。
すてき
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