きりしまみねじんじゃ
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霧島岑神社ではいただけません
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霧島岑神社のお参りの記録(1回目)
投稿日:2023年08月22日(火)
参拝:2023年7月吉日
霧島は、噴火を繰り返す自然の厳しさの象徴として山岳信仰の場として日本有数の霊場であり、、霧島で修行をする修験者たちの拠点となったところ、霧島岑神社は、性空上人が開いた(整備した)霧島六所権現のひとつです。
当時 霧島岑神社は高千穂峰中腹(高千穂峰-御鉢の鞍部にある、せたお(脊門丘・瀬多尾等の文字をあてる。)に座し霧島中央権現宮とも呼ばれていた。
鳥羽天皇の天永3年2月3日、「御鉢」が噴火、社寺共に焼失。その後、高千穂峰-矢岳間等(新瀬戸尾、岡原、夷守岳中腹)など、霧島噴火に伴うたび重なる焼失で、各所に遷座、1873年(明治6年)に現在の場所に遷されたもの。
1874年(明治7年)に同じく六所権現の一つ「夷守(ひなもり)神社」と合祀、現在の霧島岑神社となっている。
島津義弘が飯野城に居た頃は、特に当社を敬仰、度々参拝したという。
当時は霧島中央権現の名が高く参拝の徒が四方から雲集したが夷守岳へ遷宮の後漸く少くなったという。
出展元:現地案内板より。
当時 霧島岑神社は高千穂峰中腹(高千穂峰-御鉢の鞍部にある、せたお(脊門丘・瀬多尾等の文字をあてる。)に座し霧島中央権現宮とも呼ばれていた。
鳥羽天皇の天永3年2月3日、「御鉢」が噴火、社寺共に焼失。その後、高千穂峰-矢岳間等(新瀬戸尾、岡原、夷守岳中腹)など、霧島噴火に伴うたび重なる焼失で、各所に遷座、1873年(明治6年)に現在の場所に遷されたもの。
1874年(明治7年)に同じく六所権現の一つ「夷守(ひなもり)神社」と合祀、現在の霧島岑神社となっている。
島津義弘が飯野城に居た頃は、特に当社を敬仰、度々参拝したという。
当時は霧島中央権現の名が高く参拝の徒が四方から雲集したが夷守岳へ遷宮の後漸く少くなったという。
出展元:現地案内板より。
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