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かみばしらぐう

神柱宮
宮崎県 都城駅

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神祇伯
神祇伯
2025年09月26日(金) 22時57分19秒
1664投稿

都城市の中心にある神社です。鎮西平氏の出身とされる平季基という方が大宰府から移住してこの土地を開拓して島津荘とし、天照大神さまの神託を受けて伊勢の神宮から勧請して創建しました。
その後は島津家の庶流が島津荘を治め、後に薩摩藩の私領となる中でも鎮守神として崇敬されていました。

神柱宮(宮崎県)

《一の鳥居》
巨大な鳥居が遠くから見えます。

神柱宮(宮崎県)

《神柱公園》

神柱宮(宮崎県)

《社号碑》

神柱宮(宮崎県)

《神門神社》
南九州は随身門がなく、こうした末社の形で門の神様が両脇に鎮まっている神社が多いです。

神柱宮(宮崎県)

《拝殿》
👁チェックポイント‼️
宮崎県に9社ある別表神社の一つで、この9社のうち宮崎県護国神社と当社を除くとそのほとんどの神社が宮崎県が日本神話の舞台に立ち、神武天皇さまか、またはその系譜に連なる地神五代に関わる神社です。
当社がここまで社格が高くなったのはやはり明治政府に討幕に携わった薩摩藩の影響が大きいと思われます。

神柱宮(宮崎県)

《扁額》🙏
揮毫者の徳川宗敬という方は水戸徳川家の12代目当社で、15代目将軍の慶喜公は大叔父にあたります。貴族院議員として活躍し伊勢の神宮大宮司も歴任し、戦後には神社本庁の統理を務め平成の改元ののちに91歳で亡くなりました。

神柱宮(宮崎県)

《基柱神社》
菅原道真公と平季基公を祀ります。この二柱の共通点は大宰府にいたことであり、赴任していた時期はズレていますが、道真公の無念さを汲んで自領に祀っていたのかもしれません。

神柱宮(宮崎県)

《イチョウの木》

神柱宮(宮崎県)

《カード型御守り》
各病気の平癒のお守りとなっています。かなりピンポイントなので病状が明らかな人は受けると良いかも。

神柱宮(宮崎県)

《おみくじ》

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惣一郎
惣一郎
2023年03月04日(土) 17時22分57秒
1269投稿

【日向國 古社巡り】

神柱宮(かんばしらぐう/かみばしらぐう)は、宮崎県都城市前田町にある神社。旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社。主祭神は天照皇大神、豊受姫大神、相殿神は天津産火瓊瓊杵命、天手力男命、天津児屋根命、万旗秋津姫命、天太玉命。別称は「神柱神社(かんばしら~)」。通称は「お神柱(おかんばしら)」。

創建は平安時代後期の1026年、島津荘開拓のために太宰府から移住した平季基が天照皇大神の神託を受け、伊勢神宮より勧請したことに始まる。季基が家門を建てようと梅北村大吉山から門柱を切り出し、片柱を500人で牽いても動かず、さらに500人増やして柱を牽こうとしたところ、それを見ていた季基の6歳の娘がにわかに神がかって神託を得たのが社名の由来。以降、島津荘総鎮守として崇敬されてきた。島津荘は鎌倉時代、薩摩、大隅、日向にまたがる日本最大の荘園と称された。明治時代に入り、近代社格制度のもと県社に列し、現在地に遷座した。

当社は、JR日南線・都城駅の南方500mの、大きな公園・神柱公園内の北部にある。境内南側には当社に突き当たる相当長い元参道(現公道、数kmか?)があり、過去からの力の強さを感じられる。ちなみに元参道上に立つ一の鳥居は高さが25mあって、全国で第7位と言われている。小高いところにある社殿は大きく立派で旧県社、別表神社として納得。見て廻るエリアは意外とコンパクト。

今回は、宮崎県の旧県社、別表神社であることから参拝することに。参拝時は休日の午後で、かなり多くの人々が参拝に訪れていた。

神柱宮の鳥居

境内南方200mの公道上に立つ<大鳥居>。高さは25.0mあり、全国で第6位とされる。

神柱宮(宮崎県)

境内南端入口全景。社殿は小高い場所にある。

神柱宮の鳥居

階段を登る途中にある<二の鳥居>。手前に「茅の輪」が設置されている。

神柱宮(宮崎県)

階段途中左側の境内社。右側の境内社とセット。

神柱宮(宮崎県)

階段途中右側の境内社。

神柱宮(宮崎県)

階段を登り切った左側にある<手水舎>。

神柱宮(宮崎県)

手水舎前から社殿方向を望む。1月7日ということで、まだまだ初詣客が大勢いる。

神柱宮(宮崎県)

拝殿前左側の<狛犬>。線の太い現代的なもの。

神柱宮(宮崎県)

拝殿前右側の<狛犬>。目や口に彩色があるタイプ。

神柱宮の本殿・本堂

<拝殿>全景。左右非対称の翼殿を有する、なかなか大きなもの。

神柱宮(宮崎県)

<拝殿>正面。上部には「神柱宮」の扁額。

神柱宮(宮崎県)

拝殿後ろの<本殿>。樹木の葉で見えにくい...(^_^;)

神柱宮(宮崎県)

拝殿に向かって左手(境内西側)にある<臨時授与所>と<社務所>。御朱印はこちら。

神柱宮の末社・摂社

拝殿の右隣にある<基柱神社>。祭神として、平季基命と菅原道真命を祀る。

神柱宮(宮崎県)

拝殿に向かって右手(境内東側)にある、もう一つの<臨時授与所>。

神柱宮(宮崎県)

手水舎の後ろにある、<昭和天皇御手植公孫樹>。
昭和天皇が皇太子時代の大正九年(1920年)に御手植えになったとのこと。

神柱宮(宮崎県)

東側の臨時授与所の裏手にある戦争遺物。

神柱宮(宮崎県)

東側の臨時授与所の裏手にある大型石碑類。

神柱宮の本殿・本堂

最後に、基柱神社前から見た<拝殿>全景。たくさんの地元の人々で賑わっていたのが印象的~♪ (^▽^)/

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歴史

 当神柱宮の創建は、人皇第68代後一条天皇の御代、萬壽年間(西暦1024~1028年)に太宰府より大監(たいげん)という職にあった平季基(たいらのすえもと)が来都し、無主の荒野であった日向国諸県郡島津一帯を開墾して、宇治関白藤原頼通に寄進されました。
後の鎌倉時代、薩摩・大隅・日向にまたがる日本最大の荘園と称された「島津荘」の成立に起因します。
 季基は領主として島津荘を治めるに当たり、梅北に屋敷を構え、萬壽3年丙寅(皇紀1686年、西暦1026年)正月20日に家門を建てようとして、梅北村大吉山より門柱を切り出し、片柱を500人で牽いても動かず、さらに500人増やして柱を牽こうとした時、その光景を見ていた季基の6歳になる娘がにわかに神がかり、「我は伊勢の外宮なり、此の地において万民を護ろうと思う。
速やかに社を建てて、その社の名を『神柱』と称すべし云々」という御神託により、季基は伊勢の神宮へ赴き皇大神様の御分霊を奉戴して、同年9月9日、諸県郡中郷村大字梅北字益貫に創建奉祀されたのが「島津御荘總鎮守神柱宮」の始まりです。
当時から島津荘の領主・荘官は固より、荘内の人々に篤い崇敬を寄せられて来ました。これが創始と社名の由来です。
[公式HP由緒書きより]

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神柱宮(宮崎県)
《おみくじ》
神柱宮(宮崎県)
《カード型御守り》 各病気の平癒のお守りとなっています。かなりピンポイントなので病状が明らかな人は受けると良いかも。
神柱宮(宮崎県)
《イチョウの木》
神柱宮(宮崎県)
《基柱神社》 菅原道真公と平季基公を祀ります。この二柱の共通点は大宰府にいたことであり、赴任していた時期はズレていますが、道真公の無念さを汲んで自領に祀っていたのかもしれません。
神柱宮(宮崎県)
《扁額》🙏 揮毫者の徳川宗敬という方は水戸徳川家の12代目当社で、15代目将軍の慶喜公は大叔父にあたります。貴族院議員として活躍し伊勢の神宮大宮司も歴任し、戦後には神社本庁の統理を務め平成の改元ののちに91歳で亡くなりました。
神柱宮(宮崎県)
《拝殿》 👁チェックポイント‼️ 宮崎県に9社ある別表神社の一つで、この9社のうち宮崎県護国神社と当社を除くとそのほとんどの神社が宮崎県が日本神話の舞台に立ち、神武天皇さまか、またはその系譜に連なる地神五代に関わる神社です。 当社がここまで社格が高くなったのはやはり明治政府に討幕に携わった薩摩藩の影響が大きいと思われます。
神柱宮(宮崎県)
《神門神社》 南九州は随身門がなく、こうした末社の形で門の神様が両脇に鎮まっている神社が多いです。
神柱宮(宮崎県)
《社号碑》
神柱宮(宮崎県)
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神柱宮(宮崎県)
《一の鳥居》 巨大な鳥居が遠くから見えます。
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神柱宮(宮崎県)
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神柱宮の基本情報

住所

宮崎県都城市前田町1417-1

行き方

【鉄道】 JR日豊本線・吉都線 「都城」駅下車 徒歩約15分
【バス】 「小松原町」下車 徒歩約4分 または「前田3丁目」下車 徒歩約7分
【車】 「都城I.C」より約20分

アクセスを詳しく見る
名称

神柱宮

読み方

かみばしらぐう

通称

お神柱

参拝時間

24時間参拝可能

参拝にかかる時間

約15分

参拝料

なし

御朱印あり
限定御朱印なし
御朱印帳に直書きあり
御朱印の郵送対応なし
御朱印帳あり
電話番号0986-23-1395
お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。
ホームページhttp://www.kanbashira.net/
SNS

詳細情報

ご祭神《主祭神》
 天照皇大神
 豊受姫大神
《配祀神》
 天津彦瓊瓊杵命
 天手力雄命
 天津児屋根命
 万旗豊秋津姫命
 天太玉命
ご神体

不詳

創建時代

万寿三年(1026年)9月9日

創始者

平季基

本殿

流造

ご由緒

 当神柱宮の創建は、人皇第68代後一条天皇の御代、萬壽年間(西暦1024~1028年)に太宰府より大監(たいげん)という職にあった平季基(たいらのすえもと)が来都し、無主の荒野であった日向国諸県郡島津一帯を開墾して、宇治関白藤原頼通に寄進されました。
後の鎌倉時代、薩摩・大隅・日向にまたがる日本最大の荘園と称された「島津荘」の成立に起因します。
 季基は領主として島津荘を治めるに当たり、梅北に屋敷を構え、萬壽3年丙寅(皇紀1686年、西暦1026年)正月20日に家門を建てようとして、梅北村大吉山より門柱を切り出し、片柱を500人で牽いても動かず、さらに500人増やして柱を牽こうとした時、その光景を見ていた季基の6歳になる娘がにわかに神がかり、「我は伊勢の外宮なり、此の地において万民を護ろうと思う。
速やかに社を建てて、その社の名を『神柱』と称すべし云々」という御神託により、季基は伊勢の神宮へ赴き皇大神様の御分霊を奉戴して、同年9月9日、諸県郡中郷村大字梅北字益貫に創建奉祀されたのが「島津御荘總鎮守神柱宮」の始まりです。
当時から島津荘の領主・荘官は固より、荘内の人々に篤い崇敬を寄せられて来ました。これが創始と社名の由来です。
[公式HP由緒書きより]

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