みょうしゅうじ
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苗秀寺ではいただけません
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苗秀寺のお参りの記録(1回目)
投稿日:2023年10月18日(水)
参拝:2023年9月吉日
京都府亀岡市にあるお寺です。
山号は霊松山
宗旨宗派は曹洞宗
ご本尊は釈迦牟尼仏
です。
永平寺と総持寺を両大本山とするお寺です。
お参りしてまずびっくりしたのが 石門と石の鳥居があることです。
おまけに鳥居の上にはベニコンゴウインコが2羽留まっています。
由緒書があったので 鳥居が建立された理由が分かりました。
山門に続く道は 苔むした地面に石畳 本当に素敵です。
彼岸花がぽつんと咲いていたのが印象的でした。
カラフルな門旗を見ながら山門をくぐると 屋根が印象的な新しい本堂があります。
銅板ではなくスチールなのでしょう 波打つような葺き方は美しいです。
鐘楼がまた素晴らしい。
柱を支えるのは像と獅子。
龍が睨みをきかせています。
そして鐘楼の真下には仏足石。
おそらくはインド仏教の仕様を強く表しているのでしょう。
由緒については
苗秀寺(みょうしゅうじ)は奈良時代(710年~794年)に創建されたとも言われています。
苗秀寺の寺号は「叢林(そうりん)の霊苗永く無窮に秀る」から名付けられたと言われています。
苗秀寺は国分尼寺(こくぶんにじ)で 瑜伽宗(ゆがしゅう)の寺院であったと伝えられています。
その後平安時代に伝教大師(でんぎょうだいし)・最澄(さいちょ)を宗祖とする天台宗(てんだいしゅう)に改められ 一大勢力を保っていたが 戦国時代に織田信長(おだのぶなが)の家臣・明智光秀(あけちみつひで)による丹波攻略によって荒廃し 往時の詳細が分からなくなりました。
江戸時代前期の1625年(寛永2年)に親清流大給松平家4代当主で 丹波国亀山藩初代藩主・松平成重(まつだいらなりしげ)がかつて建立されていた野下の地に曹洞宗(そうとうしゅう)の寺院として再興しました。
江戸時代中期に丹波国亀山藩の藩主となった青山因幡守から亀山藩の山城跡である現在の場所を与えられ その後形原松平家11代当主で 丹波亀山藩初代藩主・松平信岑(まつだいらのぶみね)が再び中興開山しました。
松平信岑は現在の法堂(本堂)を建立しました。
とありました。
山号は霊松山
宗旨宗派は曹洞宗
ご本尊は釈迦牟尼仏
です。
永平寺と総持寺を両大本山とするお寺です。
お参りしてまずびっくりしたのが 石門と石の鳥居があることです。
おまけに鳥居の上にはベニコンゴウインコが2羽留まっています。
由緒書があったので 鳥居が建立された理由が分かりました。
山門に続く道は 苔むした地面に石畳 本当に素敵です。
彼岸花がぽつんと咲いていたのが印象的でした。
カラフルな門旗を見ながら山門をくぐると 屋根が印象的な新しい本堂があります。
銅板ではなくスチールなのでしょう 波打つような葺き方は美しいです。
鐘楼がまた素晴らしい。
柱を支えるのは像と獅子。
龍が睨みをきかせています。
そして鐘楼の真下には仏足石。
おそらくはインド仏教の仕様を強く表しているのでしょう。
由緒については
苗秀寺(みょうしゅうじ)は奈良時代(710年~794年)に創建されたとも言われています。
苗秀寺の寺号は「叢林(そうりん)の霊苗永く無窮に秀る」から名付けられたと言われています。
苗秀寺は国分尼寺(こくぶんにじ)で 瑜伽宗(ゆがしゅう)の寺院であったと伝えられています。
その後平安時代に伝教大師(でんぎょうだいし)・最澄(さいちょ)を宗祖とする天台宗(てんだいしゅう)に改められ 一大勢力を保っていたが 戦国時代に織田信長(おだのぶなが)の家臣・明智光秀(あけちみつひで)による丹波攻略によって荒廃し 往時の詳細が分からなくなりました。
江戸時代前期の1625年(寛永2年)に親清流大給松平家4代当主で 丹波国亀山藩初代藩主・松平成重(まつだいらなりしげ)がかつて建立されていた野下の地に曹洞宗(そうとうしゅう)の寺院として再興しました。
江戸時代中期に丹波国亀山藩の藩主となった青山因幡守から亀山藩の山城跡である現在の場所を与えられ その後形原松平家11代当主で 丹波亀山藩初代藩主・松平信岑(まつだいらのぶみね)が再び中興開山しました。
松平信岑は現在の法堂(本堂)を建立しました。
とありました。
すてき
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くるくるきよせん2024投稿
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