御朱印・神社お寺の検索サイト楽しみ方

じしょういん|臨済宗相国寺派本山相国寺塔頭梵王山

慈照院の編集履歴
2024年08月12日(月)
京都府 鞍馬口駅

soo_cyanさんのプロフィール画像
soo_cyan
2024年08月12日 08時45分

宗派

臨済宗相国寺派本山相国寺塔頭

編集前:臨済宗相国寺派

ご由緒

応永12年(1405)前後、在中禅師(大本山相国寺住持第13世)の創建で、始め大徳院と称し、延徳2年(1490)足利義政の影堂となり、勅命により大徳院は慈照院と改号されました。義政の法号は「慈照院殿准三宮贈大相国一品喜山道慶大禅定門」で、その事は景徐周麟(けいじょしゅうりん)自筆の「大徳院改号記」に詳しく記されています。墓地は相国寺墓地に有ります。
当院第7世仏性本源国師(昕叔顕啅(きんしゅくけんたく))の時、桂宮初代智仁親王、二代智忠親王と交渉深く、寛永6年(1629)桂宮は御学問所を当院境内に建てられ、その御学問所は寛永9年(1632)昕叔和尚に下賜せられている。現在の棲碧軒であり、桂離宮内に建てられている古書院と建築方法、建築材が同一の江戸時代初期の草庵風害院造りです。
和尚は織田有楽斎や千少庵、宗旦とも親交があり宗旦により茶室が造られ、「い神室(いしんしつ)」と呼び、落成後も宗旦は度々来て茶の点前をした。故に「宗旦好みの茶室」と称し「宗旦狐」の伝説で知られています。
その後、寛文11年(1671)智仁親王妃常照院殿の御遺命により尾張徳川が現在の本堂を建造して桂宮御霊牌殿とします。宝永4年(1707)東山天皇より宸殿(しんでん)一宇を賜り、宝暦13年(1763)桂宮旧殿を賜いて拡張し、広幡家は玄関を改築しました。
応仁の大乱以後、兵火天災も被らず、漸次拡大され寺運の隆盛をみたのであります。
なお、寺宝としては、重要文化財、灰釉四足壷(平安時代)、絹本著色二十八部衆像(鎌倉時代)、絹本著色地蔵菩薩画像(南北朝時代)、慈照院殿諒闇總簿(室町時代)、紙本墨画牧松筆達磨像(室町時代)、重要美術品数点。皇室縁りの品々、朝鮮通信使書画並びに足利義政公遺品等を伝えています

参拝時間

通常非公開

山号

梵王山

院号

慈照院

ログインすると情報を追加/編集できます。